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2016-05-16(Mon)

新・日本紀行(113)伊万里 「伊万里焼」


九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです)



『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
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九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/



 新・日本紀行(113)伊万里 「伊万里焼」  ,




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http://mcha-jp.com/wp-content/uploads/2015/03/IMG_5241.jpg






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伊万里焼は、朝鮮から連れ帰った陶工から始まったという・・、

国道204号を南下する。南下といっても湾岸は複雑に入り組んでいて、道路もそれに合わせて振り回されるように西に東に移動しながらの走行である。

地図上で、右手が伊万里湾のはずであるが、なかなかそれらしい姿は見えてこない。
伊万里湾は、東松浦と長崎を含む北松浦の両岸が大きく南へV状に入り込んだ深い浦を成している。 

そのV状の上部は大小の島々や、出張った岬で覆っているし、南端の江の部分は、伊万里川、有田川の大きな河川が流れ込んでいる。 
したがって、この浦・湾は風波に影響されることなく静かで、最奥部は汽水状態を呈している。


この条件の中、伊万里湾は日本最大のカブトガニの繁殖地となっていというのも頷ける。 
伊万里市木須町の多々良海岸は、「カブトガニの産卵を見れる」地として有名であり、産卵期の夏の大潮の満潮の頃は砂浜にあがって雌が砂を堀り数100個の卵を生む、雄はそれに砂をかけてやるという。


伊万里湾は、その他にも色々な顔を持つ。 
江戸時代の記録には、冬になるとイルカの群れが押し寄せ、湾に臨む小高い丘には三百頭以上のイルカが揚がったという記念碑も残る。

昭和初期石炭産業が華やかだったころ、伊万里市山代町と東山代町には五つの大きな炭鉱が集中していた。
久原駅からは何両も連なる貨車が、伊万里湾沿いの桟橋からは機帆船(発動機・エンジン付き帆船の略)が沖合で待つ大型船へ向かって「黒いダイヤ」を積み出した。 

合わせて、軍国風潮の頃は、軍港は南側の入り江である長崎・佐世保に決まったが、伊万里一帯は昭和15年から軍関係の輸送基地となり、20数棟の施設が並んでいたという。 

施設は、食糧や弾薬の戦地への供給基地であり、鉄道や船で運び込まれた物資は、夕暮れに乗じて輸送船団が静かに湾の沖へ移動、護衛艦を伴い戦地に向かったという。 
浦ノ崎には今も、爆薬を乗せ敵艦に体当たりする「人間魚雷」を造った造船所の廃虚が横たわる。



しかし何といっても伊万里は焼き物であろう、伊万里の南隣りに有田町があり、日本の伝統工芸品の一つ、有田焼の産地として知られている。(2006年3月1日、西有田町と有田町が対等合併し、新町制による有田町が発足する)。 

有田、伊万里で焼かれた肥前の磁器は、江戸時代には積み出し港の名を取って「伊万里焼」と呼ばれていた。 
現代でも、美術史方面では「伊万里」の呼称が多く使われている。 
有田焼」と「伊万里焼」とはほぼ同義と考えられるが、「有田焼」は佐賀県有田町で生産される磁器を指し、「伊万里焼」はやや範囲を広げて肥前磁器全般を指すという考え方もあるという。

有田焼の祖とされる韓国人・李参平(イ・サムピョン、)は、1616年頃に有田の泉山で白磁鉱を発見し、そこに焼窯を開き日本初の白磁を焼いたとされ、李参平が日本磁器の祖であるといわれる。

肥前磁器の焼造は17世紀初頭から始まったと言われ、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、多くの藩が陶工を日本本国へと連れ帰ったといわれる。 

日本ではじめて磁器が生まれたのは、江戸時代初頭、現在の佐賀県有田町であった。 
この日本で唯一の磁器生産地を持った鍋島藩は有田の優秀な陶工を集めて藩直営の窯を築き、御用窯として城内の調度品、また献上、贈答用の磁器を焼かせた。 

1675年頃になって、藩窯は山深い伊万里市「大川内山」に移り、技術の流出を防ぐため窯元を厳しい管理下に置いた。鍋島藩では大川内山の麓に関所まで設けて、人々の出入りをチェックしたという。

当時、大川内山で焼かれたものは「鍋島物」と呼ばれ、日本国内向けに幕府や大名などへの献上・贈答用の最高級品のみをもっぱら焼いていた。特に献上品は格調が高く、風格があるといわれた最高級品であったという。 
有田・伊万里・波佐見周辺で作られた焼きものは、船に乗って有田川・伊万里川を下り、伊万里港から国内外に輸出された。 

現在の鍋島焼と言われるものの殆どは、この大川内山で焼かれたものであり、現在も大川内山には30数軒ほどの窯元がある。
又、周辺には、江戸期の関所跡や朝鮮から陶工が来て焼物をつくっていた証とされる高麗人の墓や無名の陶工たちの無縁塔等がある。 


次回は、再び「松浦

  
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2016-05-10(Tue)

新・日本紀行(112)呼子 「秀吉と名護屋」 



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 新・日本紀行(112)呼子 「秀吉と名護屋」   、



 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/1/18/NagoyaC_hommaru.jpg



https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/2/27/NagoyaC_Otemon.jpg




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豊臣秀吉の行った半島進出は朝鮮の出兵か、侵略か、征伐か・・?

名護屋湾が深く入り組んでいる。その途中の大橋を渡ると鎮西の「名護屋」である。
秀吉が晩年、執念をもって外夷に走った有名処であり、方々各所に秀吉直臣だった福島、堀、黒田の各氏、又、徳川、上杉といった大大名の名も連ねる陣屋跡である。

名護屋城は今から400年程前、全国平定をなしとげた豊臣秀吉がさらに朝鮮半島、明国(今の中国)へ向けて出兵(文禄、慶長の役)するため、その前進根拠地として築かせた城郭である。
城郭は元々松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城であったところで垣副城と称していた。
その跡に秀吉が大陸への進攻を企図した際、ここを前線基地として大掛かりに築城したものである。

天正19年(1591年)8月に起工、加藤清正、寺沢広高が普請奉行となり、九州の諸大名を中心に総動員し、突貫工事で挙行、僅か八ヶ月後の文禄元年(1592年)には完成したという。 
規模は、当時の城郭では大坂城に次ぐ広壮なものであったらしく、本丸・二の丸・三の丸・山里曲輪などを配し、本丸北西隅に五重七階の天守が築かれた。 

城跡からは、金箔を施した瓦が出土しており、派手好きの秀吉らしく戦争の為に構えた城郭であっても絢爛豪華であったことが伺える。 
城郭の周辺には各大名の陣屋が配置され、最近、秀吉の茶室跡等が見つかったと話題を呼んだ。


朝鮮の役は、豊臣秀吉が1592(文禄1)~93年,1597(慶長2)~98年の2度にわたって朝鮮を侵略した戦争である。
全国を統一した秀吉は、国内の支配体制をさらに強化し、領土を広げようとして明(中国)の征服を画策し、朝鮮側(李氏朝鮮)に道案内を求めた。 
しかし朝鮮が断ったので二度にわたって16万人ともいえる兵団を朝鮮へ向かわせた。 

はじめ,朝鮮の都・ソウルを陥落させ北方まで進んだが,後に明・朝鮮の連合軍に苦戦したが、1598年、秀吉の病死によって終戦となり兵を引きあげた。

この戦は近年になって物議をかもし、「朝鮮出兵」と呼ばれることが多いが、朝鮮側が受けた被害に関心をもつ立場などからは「朝鮮侵略」と呼ぶこともある。
これに対し日本側の立場からは朝鮮征伐と呼ばれる場合もあるとか。 

豊臣政権時から江戸時代後期に至るまでは、明の征服をも目指していたことから唐入り、唐の御陣、また高麗陣、朝鮮の陣などと呼ばれたこともあるとか。 
又、近年の教科書には、当事国の意を汲んで朝鮮侵略と表記されていることが多いという。
現在、これら陣屋跡の発掘が進んでいるようである。

中でも有力大名であった前田利家が置いたとされる陣屋の発掘調査がこのほど終了したといい、調査では利家の大規模な邸宅跡も確認されている。
又、昨今、名護屋城跡の周辺では、全国から終結した徳川家康ら有力武将の陣屋が、約130箇所程確認されていると言う。


名護屋は、昔は名護屋村と称していたが、今は鎮西町の行政区のようである。 
鎮西(ちんぜい)と聞くと、高校野球の鎮西高校、鎮西学院など熊本を連想するし、それに鎮西といったら九州のイメージになるが。

奈良期、大宰府を改称して設けられた九州統督の役所を鎮西府とした。 
平安期、身内の諍い(いさかい)で九州へ追放となった源 為朝(ためとも:頼朝の叔父)は、九州を制圧したことから「鎮西八郎為朝」と名乗って、その威風を都にまでとどろかせた。 
又、鎌倉期、1185年、源頼朝が家臣を九州地方に派遣して、平家残党や逃亡中の義経の監視及び元平家の九州御家人を統制さする所謂、「鎮西奉行」、「鎮西探題」を設置した(鎮西守護)。
元来、「鎮西」とは、九州の地を鎮めるという形容的意味合いで呼ばれたものであって、地域の固有名ではなかった。

地方の小さな行政名が、故あっての事とは思うが、「鎮西」としたのは些か名前負けはしないだろうか・・?、 
尤も、鎮西町は呼子町など八市町村が合併し、2005年1月1日に新「唐津市」となってる。 
従って、九州地区の自治体名で「鎮西」というのは現存していないらしい。


次回は、伊万里の焼物

  
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2016-05-08(Sun)

新・日本紀行(111)松浦半島 「松浦党」 




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 新・日本紀行(111)松浦半島 「松浦党」  .





東松浦半島






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邪馬台国の時代、この辺りを「末羅国」(まつらのくに・松浦の国)と言った・・、

唐津湾の西側を玄界灘に向かって突き出ているのが、松浦半島(東松浦半島)である。 
この最先端に「呼子」といういう港がある。 

海辺は深く入れ込んで江を造り、浦の両側には山が迫っている。正面には加部島(かべしま)があり、この大きな島が、外洋の風波を避けるために衝立のように港口をふさいでいる。 
こちらの港町も、壱岐、対馬伝いに大陸に向かう古代の交通の要衝だったという。 

江戸期には、廻船が行き交う港町として栄えたところであり、今は入り組んだ入江に大きな照明灯を付けたイカ釣り船が並び、漁港としての朝市も盛んだという。 
呼子大橋を渡ると加部島、江戸期には捕鯨も行われたところでもある。
 

又、北九州のこの辺りは、往年、「松浦党」なる海人、水軍の割拠した地域であった。
松浦氏、松浦党という名称の由来は、歴史上に登場する松浦の地名から生じたことは疑わない。 
現在の地域区分は、長崎・佐賀両県にまたがる東西両松浦郡、及び南北両松浦郡で、ご丁寧に東西南北の松浦郡が存在する。
地名称も松浦半島、松浦市、松浦川などに見られる。 

歴史的に見てみると松浦とされていた地理的範囲はかなり広域だったようで、東西両松浦郡を上松浦、南北両松浦郡を下松浦と呼ぶこともあるらしく、広域には壱岐や五島列島の方まで達していたとされる。


松浦」の呼称は、「まつうら」が一般的であるが、往年の長い間、「まつら」と呼ばれていたようである。 
古代「魏志倭人伝」(中国の魏の史書、日本古代史、弥生期に関する事が納められた最古の史料)には日本を「邪馬台国」(やまたいこく)と称し、この辺りの地方を「末羅国」(まつらのくに)と記されている。

松浦氏は、平安中期の11世紀頃、摂津国(現在の大阪府)渡辺庄の渡辺氏が、肥前国松浦郡の今福(現在の松浦市今福町)に下向し、この地の統治者となって松浦と称した、という見方が一般的とされる。

一方、東北の陸奥の戦乱(前九年、後三年の役)で滅ぼされた安陪氏の支族が福岡・宗像の大島辺りに流されて、それが松浦党の前身であるとの説もある。 


いずれにしても松浦党は海や船のことに関しての知識や技術はかなり発達し、地域、地形的にも海人たちの絶好の住処であったため、松浦党は日本水軍の創始者とも言われている。



松浦党は、平安期は平家の家人となっていたが、日本の歴史上一つの山場となった源平合戦の時は、平氏側として水上戦においてはかなり源氏を苦しめたとされている。 
しかし壇ノ浦の戦いでは源氏側に寝返ったとも言われている。 

その後、鎌倉幕府が成立し鎌倉時代となるわけだが、本来なら、源氏と敵対していたわけだから、処罰を受けてしかるべきなのに、逆に、領土の安堵が成されている。
これは源氏側への寝返りの結果こうなったのか、あるいは松浦党が大多数の集合体(武士団の連合・水軍)であったために、統治者・惣領(中心となる人物、又は、領主)がいないため、責任を誰に押し付ければよいのか幕府側も判らなかった為ともされている。

ただ、源平合戦では壇ノ浦の戦いにおいて源氏方に付与し、その功から鎌倉幕府の鎮西御家人となり「地頭」となるが、源頼朝は元平家家人の九州の豪族への信頼は薄く、九州の抑えとして島津氏、大友氏を守護として九州に送ったのである。

その結果松浦氏は、同じ環境の秋月氏(平家の家人だったが、壇ノ浦の戦いにおいて源氏方に付いた)などと同じく、これらの新参の東国御家人の所謂、「下り衆」と言われるの統治者の傘下に置かれることになる。




鎌倉中期に、「元」の国から二度にわたる襲来を受けた「元寇」の時も、松浦党は最前線の防衛の役割を担い、そのせいで一部では多大な損害を受けた。 
後に鎌倉幕府に恩賞を求めたりしたが、これも全体の統治者が不確定のためか・・?、
幕府側の対応は厳しく、松浦党側としては不納得であった。

これらが要因かどうかは疑問もあるが、松浦党の武士たちは朝鮮半島や中国沿岸で海賊的な行為をするようになる所謂、「倭寇」として怖れられることになる。
だが後には、対朝鮮との正式な貿易が以前にも増して大きく展開し、国の発展の基となる。 

そして日本は戦国時代を迎え、豊臣秀吉が天下統一を達成した後、それだけでは飽きたらず周りの反対を押し切って、二度にわたる朝鮮出兵を断行する。
この朝鮮出兵に関しても、松浦党は朝鮮本土まで渡り、激しい戦いを繰りひろげたとされていて、ここでも、一族の多数の者が戦死したとされている。 
これにより連合的武士団の松浦党もいくつかに統合され、平戸藩主となった松浦氏(初代藩主・隆信)が、その後中心となって江戸初期(平戸藩6万3千国石)から現在に至っているという。
尚、松浦氏、松浦党に関しては、後ほど更に述べる予定です。


次回は、その朝鮮出兵の拠点、松浦の地元・「呼子の名護屋

  
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2016-05-07(Sat)

新・日本紀行(110)唐津 「唐津城」


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 新・日本紀行(110)唐津 「唐津城」 





https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/60/Karatsu_Castle.jpg/800px-Karatsu_Castle.jpg




https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/9/9e/KaratsuCastle1.jpg





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のんびり朝食を摂って、宿を出たのが7時半を回っていた。
虹ノ松原の尽きる所の西端部は、一級河川の「松浦川」の河口になっている。
尤も、河口から奥まった所まで、松原砂州の西南地域は広大な水域をなしている。 
唐津城の築城主の寺沢氏が慶長7年から13年にかけ、松浦川の大改修など土地の改良に努め、現在の姿になったという。 

河口の先端に水に写して「唐津城」が立つ。 
松浦川河口に架けられた舞鶴橋、洒落た造りの欄干の端に石灯篭風の石柱に、平仮名で「まいずるばし」と刻してある。 
この橋を手前に配して、緑の小山(舞鶴公園)の頂きに唐津城天守閣が毅然と立ち上がっている。実にすばらしく、一服の絵をみるようである。 

この城は、東に虹ノ松原と西側に西の松原が広がり、左右両翼に広がる松原があたかも「鶴が翼」を広げた姿に似ていることから、「舞鶴城」とも別名で呼ばれている。
城域の下部へ到って、海抜43mの高度がある石段を息せきって登る。 
入城門まで達したが、やはり時間外で城内入城は出来なかった、写真で我慢しよう。 
見上げると、そそり立つ石垣の上に白亜の天主が朝日に輝いていた。



唐津の北方松浦半島の先端に、「文禄・慶長の役」に際し築かれた豊臣秀吉築城の「名護屋城跡」が在ったが、時過ぎて江戸・徳川期には無用の長物となって廃城になっていた。 

この城を石垣までの取り壊し、その解体資材を用いて慶長13年(1608)に築城されたのがここ「唐津城」だったいう。 
代官を任せられたのが克っての秀吉の側近の一人、唐津藩初代藩主・寺沢広高であった。
唐津湾に面した小高い満島山に配置され、松浦川の流れを引き寄せて南側には堀割を造り、東側には河口を開き防御と舟運の便を図った。
これら唐津城の築城技術は特筆すべきもので、広高によって7年の歳月を掛け築城された。



戦と無縁の現代においては、その景観の素晴しさが最大の魅力である。 
城をシンボルとして唐津の風光明媚な町並の基礎を築いた初代藩主・寺沢広高の功績は多大なものがあると言える。
初代寺沢家の後、大久保家、 松平家、 土井家、水野家、 小笠原家と徳川譜代の大名衆が引継ぐが、水野家の初代忠任(ただとう)の時に「虹ノ松原一揆」が起こったことは先に述べた。

其の唐津藩主・水野家第4代藩主忠邦(ただくに)は、藩政の傍ら幕閣入りの活動も積極的に行い、希望が叶って徳川家のお膝元・浜松へ転封した後、大坂城代・京都所司代などを経て江戸出府、幕府・老中と出世している。 
忠邦が行った「天保の改革」は有名であり、天保10年(1839年)に老中首座となっている。

唐津城は、時代が流れて明治の廃藩置県によって廃城となったが、昭和41年(1966)に現在のものとして復元されている。


次回は、「松浦半島

  
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2016-05-07(Sat)

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 新・日本紀行(110)唐津 「虹ノ松原・唐津城」  .





https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c9/Niji_no_Matsubara.jpg/300px-Niji_no_Matsubara.jpg









虹ノ松原と名城・「唐津城」





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「虹ノ松原一揆」の円満解決は、唐津藩主・水野氏の英断によるもの・・、

昨日というか、昨夜というか・・、
癒しの温泉、上質の食事に美酒、素敵な和室の泊まりで、尚且つ前の晩の寝不足も手伝って行動記録を執筆中に寝込んでしまったようだ。
従って今朝は、たっぷり睡眠を取ったせいで気持ちよく、スッキリと目覚めた。
時計の針は間もなく6時を指そうとしている。本日も連日と同様、好天気のようなので先ずは朝の散策ウオークと決める。


それにしても「虹ノ松原」は圧倒的な松林であり、殆どが黒松のようである。
太い幹は地面スレスレに変形、曲がりくねったものも有るし、それがかえって奇妙な雅趣と風情を演出している。

冬季に起きる強烈な海風の影響で樹枝は屈曲を成しているという。
樹齢数百年を越える老木から幼木にいたるまで約100万本を数え,松原内を通る国道202号は、さながら緑のトンネルの様相を呈し、特異な雰囲気をだしている。


この景勝の地は、1771年に「虹ノ松原一揆」の舞台ともなった所であり、松原のほぼ中央「海濱館」の片隅に平原村の大庄屋・冨田才治の顕彰碑が昨年(2004年)、子孫たちや関係者によって建てられたという。

事件は三河の岡崎から唐津藩へ転封してきた「水野氏」が発端となった。 
水野氏は財政改革として、税の増収対策を講じた。

しかし、領民は明和年間の凶作も重なって不満が一挙に高じ、一揆へと発展するのである。 虹ノ松原に2万5千人の農・漁民を集結させ、指導者・冨田才治数名が城内で直談判すること数回、農漁民と藩との静かな睨み合いが続いた。
一揆は府内への進軍はなく、虹ノ松原に座して動かず、抑制の効いた無抵抗運動であり、遂に唐津藩は税制改正の全面撤回という譲歩を行なったという。

通常の一揆は大方、流血の騒動になるのだが、一滴の血も流すことなく成功に導いたのは極めて稀有であり、又、農漁民の動員規模においても唐津一揆は、江戸期における最大規模の農漁民一揆の一つという。
しかし、一揆の首謀者が死罪になるという、幕藩体制下での掟は唐津藩でも例外ではなく、富田才治を指導者とする数名が自首し処刑せれたのであった。


虹の松原は、「三保」、「天橋立」と並んで日本三大松原の一つ、日本の特別指定名勝になっている。幅500m、長さ5Kmに及ぶ松林で、NHKが21世紀に残したい「日本の風景」で全国第5位にも選ばれている。


次回、唐津城と水野氏

  
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