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2017-05-24(Wed)

平成日本紀行;石見銀山紀行(12) 「石見銀山史」(2)





 平成日本紀行;石見銀山紀行(12) 「石見銀山史」(2)  .






 http://www.town.kadena.okinawa.jp/kadena/soukan/book/2/78p1.jpg
大森代官所跡近くにある「井戸平左衛門正明」を祀る井戸神社





序ながら、「いも代官」と言われた大森代官の逸話を一つ

石見銀山」の代官所は大森町に設けられ、幕末まで59人の奉行・代官が交代で赴任したという。
無論、当地の代官は銀山は勿論、同時に村方の支配をも行っていたとされる。


1731年(享保16年)、大岡忠相(ただすけ:越前守)の推挙により、第19代代官に「井戸平左衛門正明」(いどへいざえもんまさあきら)が任ぜられた。 
彼は、60才の高齢と任期2年の短期にもかかわらず、銀山奉行のかたわら、領民から「いも代官」として慕われたという。 

その功績は、享保の大飢饉に苦しむ領民のため薩摩国から他の地域に先駆け石見国に甘藷(カライモ:さつまいも)を導入し、普及させたとされ。 
又、飢饉の際には自らの財産や裕福な農民から募った浄財で米を買い、更に、幕府の許可を得ぬまま代官所の米蔵を開いて与えたり、年貢を免除・減免したという。


普通、代官といえば私服を肥やし、領民を苦しめる悪代官のイメージがあるが、こちらは善政の見本の如くの人物である。 
しかし、これらの所業は幕府の知られるところとなり、1733年、平左衛門は大森代官の職を解かれ、備中国・笠岡(現在の岡山県)の陣屋(代官の居所)に謹慎を命じられた。 

平左衛門は幕府の正式な処分がくだる前に、自らの責任をとって腹を切り、62歳の生涯を終えたと云われている。 
井戸平左衛門を祀った「井戸神社」が大森町に鎮座している。


境内の顕彰碑には・・・、
『 時は徳川の中期将軍吉宗の頃、当時全国をおそった享保の大飢饉に石見銀山領二十万人民の窮乏はその極に達し、正に餓死の一歩寸前をさまよっていた時大森代官井戸平左衛門正明公は、食糧対策百年の計をたててこの地方に初めて甘藷を移入、その栽培奨励に力を注ぎ、一方義金募集・公租の減免を断行、遂には独断で幕府直轄の米倉を開くなど非常措置により、一人の餓死者も出さなかったというこの深い慈愛と至誠責任を貫いた偉大なる善政は、千古に輝き今も尚代官様として敬慕して公のみたまをこの地に祀り、その遺徳を永く顕彰している。 』

平左衛門の死後、彼の功績をたたえる頌徳碑は490ヵ所にも及んでいるといわれ、島根県の外に鳥取県や広島県にも建てられていりという。




引き続き近世の「石見銀山史」であるが・・、

幕末の1866年(慶応2年)6月、第二次長州戦争において幕府は石見国に近隣藩の藩兵を出動させたが、長州軍の村田蔵六(のちの大村益次郎)隊の進発を食い止めることができず、その1ヶ月後、浜田藩主・松平武聡は浜田城を脱出し落城している。

これにより長州軍の石見銀山領への進撃は不可避なものとなり、最後の大森代官・鍋田三郎右衛門成憲は7月20日の夜に、家来とともに備中国倉敷へと逃亡し、石見銀山の幕府支配は終焉を迎えた。


以後、旧石見銀山領は長州藩の長州民政方(大森本陣)によって支配されることとなり、1868年(慶応4年)1月に長州藩預地となった後、1869年(明治2年)8月には大森県が設置されて長州藩による支配は終わった。
この後、石見銀山は大正末期の頃には産出微小となり閉山している。 


こうして鉱山としての生命は途絶えたが、日本の鉱業の先駆的役割を果たした石見銀山の産業遺跡としての価値は高く、遺跡の保存・整備が進められてきた。

昭和44年(1969)、代官所跡・要害山・山吹城跡、各所の間歩、それに各所の墓・霊所・神社、大久保長安墓が国指定史跡となり、その他、県指定・市指定遺跡が多数存在する。 

又、大森代官所跡に「石見銀山資料館」を開館し、「熊谷家住宅」等が重要文化財に指定され、現存の大森集落が、町並みの「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。

そして、2005年9月、政府は世界遺産に推薦することを正式に決定している。


世界遺産の産業遺産としてはアジアでは皆無で、鉱山遺跡は、欧州や中南米にあるが、18世紀以前の所謂、産業革命前の鉱山遺跡としては「石見銀山跡」は稀有の遺産といえるのである。  

尚、銀山史跡の大森町は現、太田市大森町であり、以前は仁摩町大森地区であったが、その仁摩町は2005年10月、大田市、温泉津町と合併し、新しい大田市となり消滅している。



【付記】  .

世界遺産に指定された大森地区は山間の狭い地域のために、観光目当ての自動車等が通るスペースが無く、「パーク&ライド方式」がとられている。
パーク&ライド方式とは、都市部や観光地などの交通渋滞の緩和のため、自動車等を郊外の駐車場に停車させ、そこから公共交通の鉄道や路線バスなどに乗り換えて目的地に行く方法である。 こちらでは、石見銀山駐車場に車を止め、ここからバスを利用して各要所に移動することになる。
因みに、2007年(平成19年)7月の世界遺産登録後、来訪者が急増し、8月は1カ月間で63625人が来場し、又、今年(2008年)は11月21日現在で、昨年の3~4倍となる32万7533人が訪れたという。(協会発表)

本稿で、世界遺産・「石見銀山」は終了いたしました。 



関係書物は下記石見銀山に関する資料です。

「世界遺産石見銀山を歩く」 穂坂 豊
「石見銀山 四季 暮らし ものづくり」 いなとみ のえ
「石見銀山 (別冊太陽)」江田 修司 田中 琢
「出雲と石見銀山街道 (街道の日本史)」 道重 哲男 相良 英輔
「石見銀山を歩く」―ガイドブック
「江戸幕府石見銀山史料 (1978年)」 村上 直
「石見銀山の港町温泉津紀行」 伊藤 ユキ子



次回からは再び日本周遊を辿ります。 先ず、湖陵から出雲大社

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2017-05-23(Tue)

平成日本紀行;石見銀山紀行(11) 「銀山の歴史」




 平成日本紀行;石見銀山紀行(11) 「銀山の歴史」   .



「石見銀山」が、何時、誰に発見されたのかを確実に伝える資料は今のところ見つかっていないという。
ただ、「銀山旧記」という説話古文書にはは以下のように記されているという。

『 室町後期、博多の商人・神谷寿禎(かみやじゅてい)が銅を買うため出雲へ赴く途中、日本海沖から山が光るのを見た。大永6年(1526)には銅山主・三嶋氏が3人の技術者を伴って採掘し、鉱石を九州へ持ち帰った・・』 とある。


日本を代表される銀山として知られる石見銀山は14世紀には発見されたと伝えられ、その後、本格的な開発は貿易商人・神谷寿禎 ( かみやじゅてい )氏によってなされていたという。 

寿禎は先ず、間歩(まぶ)と呼ばれる坑道を掘り、大量の銀鉱石の採掘に成功する。
さらに天文2年(1533年)には「灰吹法」(金や銀を鉱石などからいったん溶融鉛に溶け込ませ、さらにそこから金や銀を抽出する精錬法)と呼ばれる精錬方法を導入し、大量の銀を生産するようになったといわれる。 

寿禎の開発後、銀山の位置する石見国周辺では山口の大内氏、出雲の尼子氏、広島の毛利氏が勢力を張っていた。 
とくに石見国の守護であった大内氏の滅亡(1551)後は、毛利氏と尼子氏の争いとなり、結局、永禄5年(1562)毛利氏が石見国を平定し、銀山と温泉津を直轄地とした。

その後、天正18年(1590)豊臣秀吉が全国を統一した後、毛利氏は豊臣氏の一大名として中国地方を知行し、採掘した銀は豊臣氏へ納めることになる。 
以降、慶長 5年(1600)関ヶ原の戦い終結まで豊臣、毛利氏の支配が続くことになり、秀吉が朝鮮出兵の際に鋳造したと伝えられる「石州銀」が今も現存するという。


次に、関が原の戦いに勝った徳川家康は、その僅か10日後には石見地方を直轄化(天領)している。
慶長5年(1600)11月、家康の重臣・大久保長安が石見に下向、毛利氏から銀山を接収、鉱山経営に見識のあった大久保石見守長安が初代の奉行となった。
この時期、銀は海路運行から、より安全な陸路を通ることになり、その尾道までの陸上搬送においては製品管理を徹底したという。 

石見銀山街道の主要路となった「尾道ルート」は、近世に整備された山陰と山陽を結ぶ道で、現在の石見街道とは異なり地名で言えば邑智町(おおちちょう)、赤来町、広島県布野町から三次市に至り、出雲街道の吉舎町(きさちょう)、世羅町を経て尾道に達している。

天領である大森銀山で産出された銀は、陸路の難所である赤名峠を越えることから「赤名越え」または、「石見路」ともいわれる。


以来260年間、石見銀山は幕府の直轄領として支配され、全国の天領に代官所が設けられたのと同様に、幕府から派遣された郡代・代官が支配にあたっていた。 
徳川天下において全国の貨幣を統一するためには、鉱山の掌握が重要な政策の一つであり、「石見」の場合の所領は、銀山を中心とする約5万石相当で、「石見銀山御料」と呼ばれていた。


先に記したが、石見銀山の様子を記したものに「銀山旧記」というのがある。
この「銀山旧記」は現在、「生野書院」(生野史料館;朝来市生野町口銀谷)に展示してあるという。
生野は「生野銀山」として石見銀山同様、大量の国内銀産出地として有名。



ただ、「銀山旧記」といっても、一様のものでなく数種あったとされているが、その中に、馬路町の「波積屋広平」という人物によって作成された「銀山記」なるものもある。 
本は、必ずしも状況を詳細に記した教書、史書ではなく、江戸期に流行した写本(手で書き記した書物、写は書き記すという意味)や一般の読み物として流布したものとされている。 

時代が下って銀山が衰退する中、山師や銀山役人たちは自らの地位を回復するため「銀山旧記」を編纂して幕府への貢献をアピールすることも行われたという。 
従って、誇張した表記も多く、真実性にはやや乏しいともいわれる。

その一つの「銀山旧記」によれば、この頃、安原伝兵衛という者が「釜屋間歩」と名付けた坑道から年に3600貫(13,500kg)もの運上(年貢として納める銀)を出し、家康から褒美を賜ったとある。 又、この頃の様子を「慶長の頃より寛永年中大盛士稼の人数20万人、一日米穀を費やす事1500石余、車馬の往来昼夜を分たず、家は家の上に建て、軒は軒の下に連り」と記している。 

如何にも大袈裟に、誇張されて記されているが、ともあれ、この頃の繁栄ぶりは相当なものだったことは確かであろう。



一大銀産出国・日本の実態を物語る驚くべき試算がある

16世紀後半から17世紀前半の石見銀の最盛期における産出量は年間約1万貫(約38t)と推定され、世界の産出銀の約3分の1が日本の銀が占めていたといわれる。(世界生産量の平均は年間200トン程度)  

そして、その石見銀が日本の輸出銀のかなりの部分を占めていたことは、戦国時代後期のポルトガル人によって石見が「銀鉱山王国」と照会されたことでも判る。 

石見銀山は灰吹法の導入からわずか35年後にして、その存在がヨーロッパに伝えられ、石見銀をはじめとする日本の銀が大量に海外へ運ばれていたのである。 


石見銀山の最盛期の頃は世界史でいう大航海時代にも当たり、西洋では日本とも交流をもったポルトガルやスペインを中心とした航海時代に突入した時代でもあった。 

海上交通や貿易などで人々が地球規模で交わり始めていた中、貨幣価値は世界的にも「」とされていた時代である。 

日本に伝わったとされる「ポルトガルよりの鉄砲伝来」や「スペイン人のフランシスコ・ザビエルによるキリスト教布教活動」(いずれも16世紀頃)などにおいて、彼らの本来の目的は日本の「」にあったともいわれている。


石見が引き金になった日本の銀生産は、単に国外に銀を流出させただけではなく、人々の往来により、海外から新しい技術や産業などを含め、驚くほど多様な情報や文物が伝わり、当時の庶民生活を豊かにしたともいわれる。


次回は、引き続き「銀山の歴史


2017-05-22(Mon)

平成日本紀行;石見銀山紀行(10) 「銀山街道」





 平成日本紀行;石見銀山紀行(10) 「銀山街道」  .






 http://www.geocities.jp/saigokuh16f6/4900iwami-ginzan_fig001.gif
石見銀山の尾道銀山道
( このMAPは、筆者・○○氏から拝借したものです。
詳細URL; http://www.geocities.jp/saigokuh16f6/49iwami-ginzan.html ) 





龍源寺間歩より先は、車では行けず山道となる。 

先にも記したが、この山道こそ石見銀山と温泉津を結ぶ、所謂「銀山街道・温泉津・沖泊道」であり、街道の中でも最重要の銀山ルーとで、しかも一番の難所と言われている。 

降路坂」と呼ばれる頂上部には「妙法蓮華経」という名号が彫られた石塔や石碑などが各所にあり、約1時間で麓の西山部落へ達する。
現在は「中国自然歩道」となって整備されている。

沖泊道は、主に16世紀後半の毛利氏の時代、約40年間にわたり銀の輸送や石見銀山への物資補給、軍事基地としても機能した港である。

沖泊道よりの北側、大森町の西側に「鞆ヶ浦道」が山間を貫いている。
沖泊道より更に古く、16世紀前半から中頃の大内氏の時代、銀鉱石を鞆ヶ浦から博多に積み出した港である。

二つの街道には、通行を容易にするための道普請の跡がよく残っているという。
道中には運搬に関係した伝承の地跡、通行者や周辺住民が通行安全や病気平癒を祈った信仰関連の石碑・石仏などが多数点在して残っている。



当初、銀の搬出は日本海側の温泉津港を使用し、海路により輸送されていたらしいが,海上輸送は危険を伴うため、江戸時代には陸路を通じ、今の広島県尾道へ運ぶルートが整備された。

慶長5年(1600年)9月、関ケ原の戦いが終わると石見銀山は徳川幕府の支配下に入り、初代の銀山奉行として大久保十兵衛長安(石見守長安)を重用し、積極的に開発をすすめた。
長安は、慶長中期(1608年ごろ)以後、銀の輸送は海上輸送から陸路輸送に切り替え、新たに広島県尾道までを結ぶ銀山街道を整備した。

近世に整備された山陰と山陽を結ぶ道は、天領である大森銀山で産出された銀を山陽の港町・尾道まで運ぶために設けられた街道で、難所である赤名峠を越えることから「赤名越え」または、「石見路」ともいわれる。 
尚、この街道は江戸時代には出雲大社道としても往来があったようで、大いに盛んであったという。

大森を出発した銀は、荻原から険しい「やなしお道」(現在の国道357号線の南側、中国自然歩道;平成8年に文化庁の「歴史の道百選」)を抜けて粕淵、九日市、酒谷を経て赤名峠を越え、広島・安芸に入って三次、甲山から尾道まで運ばれた後、瀬戸内海路で大坂や京の「銀座」に集められたという。

この道中、「」の集積中継地として安芸・上下町(じょうげちょう;現、府中市上下町)に代官所が置かれ、幕府直轄の天領として政治的にも経済的にもこの地域の中心となっていた。
陸路の終着である尾道をはじめ豊かな商人が多かったこの宿場町は、現在でも商店街を中心に賑わいを見せており、奥行きの深い白壁の町屋など、文化財的建物が数多く残っている。


尚、大森銀山する生産する精錬された「灰吹銀」は、その都度代官所脇の御銀蔵に貯蔵され、百姓が動員されやすい農閑期に入った時期を見計らって年1回尾道に運ばれた。
尾道からは船で瀬戸内海を通って大阪に運ばれ、大阪銀座か大阪御銀蔵に一旦納められた後、京都の銀座に移され、そこで幕府が発行する銀貨に鋳造されたという。


次回は、 「銀山の歴史

2017-05-19(Fri)

平成日本紀行;石見銀山紀行(9) 「鉱山の守神と間歩」




 平成日本紀行;石見銀山紀行(9) 「鉱山の守神と間歩」   .






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石見銀山遺跡・「龍源寺間歩」入口




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龍源寺間歩の内部





落ち着いた雰囲気の「安養寺」からは道路は山峡の地へ入り、車がやっと一台通れるくらいの道幅である「新切間歩」や「福神山間歩」などがあり、間歩までは約1.5kmの坂道を緩やかに登って行くと最奥に「龍源寺間歩」があった。 
尚、間歩(まぶ)とは、明治以前は坑道(こうどう)のことを指していた。


この「龍源寺間歩」の近くには、前述した「佐比売山神社」があり、鉱山の神様をまつる神社として知られている。
社は参道、鳥居、山裾の階段を登った先、鬱蒼とした木立の中に鎮座している。

佐毘賣山神社は、鉱山開発の祖神である益田の同社・佐毘賣山神社から分霊、勧請したもので石見銀山の主神であり守り神である。 
主神は鉱山の神とされる「金山彦命」を祀る。


面白いのは石見銀山の主神・佐毘賣山神社と同名の神社が、同地域の大田市内の三瓶山の麓にも鎮座していることである。
この社は、大国主命が国土経営の時、佐比売山(三瓶山の旧山名)山麓に池を穿ち、稲種を蒔き、田畑を開いて農事を起こし、民に鋤鍬の道を教えたので神徳を仰いで、この地に祀ったという。 
所謂、米造り、金属の神とされる。 

配神として鉱山の神である「金山彦命」を祀ってはいるが、直接の鉱山の神ではないらしい。


だが、新羅(朝鮮)からの伝承をもつ三瓶山であり(国引き伝説)、元より稲作技術、金属精錬、鉱山開発の技術、それらの集団は朝鮮半島より伝わったものとされている。
これらの意味をこめて三瓶山の麓に、自身の山名でもある佐毘賣山神社を祀ったことは道理なのである。

出雲地方に共通した社名が付くのは決して偶然ではなく、神社としては珍しいことに三瓶山の佐毘賣山神社をはじめ、益田の佐毘賣山神社、石見銀山の佐毘賣山神社の三社殿とも西北風(あなじ)が吹いてくる北西に向かって鎮座しているという。
このことは渡来発祥の地・新羅(朝鮮半島)に向いているもので、渡来の民の祖国を想ってのことと推察できるのである。

佐毘賣山神社の各社は、今では忘れられたように鬱蒼とした叢林の中に苔生して鎮座している。



さて、「間歩」のことである。

小さな受付小屋があって、「変な・・おじさん・?」が居座っている。 
山蔦に覆われた坑道の入り口に「史跡石見銀山遺跡龍源寺間歩」とあり、現在唯一内部を見学できるのが、この龍源寺間歩のみであるという。 

龍源寺間歩案内板より・・、
『 江戸中期以後に開発された間歩(坑道)で、「御直山」と呼ばれた代官所直営の創業地にあった坑道で、中でも銀山を代表する「五か山」の一つです。 坑口の横には番所(管理小屋)を設け、四ツ留と呼ぶ坑木を組み合わせて坑口としています。坑道は、ほぼ水平に約600m掘り進んでおり、高さ1.6~2m、幅0.9~1.5m、採掘と同時に鉱石運搬の幹線坑道としても使ったようです。内部の岩質は角礫凝灰岩、坑道の壁面や天井にはのみ跡が残り、鉱脈を追って掘り進んだ小さな坑道(ひ押し坑)や上下方向に延びる斜坑を見ることができます。排水用の坑道でもあった下の「永久坑」へ降りる垂直の竪坑も残っています。  坑道は入り口から水平に約630m続いており、そのうち現在公開している坑道は、156mまでで、そこから新しく掘った116mの連絡通路で栃畑谷へ通り抜けるようになっています。床面の高さは入坑しやすいように一部で掘り下げたところもあります。 』


銀を掘るために掘った坑道を間歩(まぶ)というが、石見銀山に500余り存在するとも言われる間歩の中で、現在一般公開されているのは「龍源寺間歩」のみとう。  
しかしその龍源寺間歩にしても、見学できるのはほんの一部分であり、その奥にアリの巣のように掘られている坑道は見ることができない。 

龍源寺間歩よりもっと大きな坑道もあったようで、 近年までは電動のトロッコ列車なども使用されたようである。


間歩入り口は小さな洞窟で、古い坑道の壁面 には当時のノミの跡がそのまま残ってている。最盛期の頃は間歩の掘削は1日5交代の24時間フル稼働であったそうで、縦1m・幅60cmの横穴堀は大変な作業であり、当時の技術では熟練の堀子(ほりこ・鉱山労働者)でも1日に掘り進める距離は凡そ30センチがやっとであったと言われている。 

因みに、掘子の賃金は熟練の者で銀2匁(1匁=3・75g)で、今のお金で5000円位であったとか。(江戸・慶長年間) 
壁面に残る当時のままのノミ跡が堀子たちの過酷な労働を想像させる。


龍源寺間歩は、石見銀山に掘られた500ほどの坑道のうち、江戸時代の中頃に開発された坑道で、代官直営坑道「五山」の一つである。 
「御直山五ヶ山」とは、「龍源寺間歩」、「永久間歩」、「大久保間歩」、「新切間歩」などを五ヶ山と呼んでいる。


次回は、「銀山街道

2017-05-18(Thu)

平成日本紀行;石見銀山紀行(8) 「大久保石見守長安」





 平成日本紀行;石見銀山紀行(8) 「大久保石見守長安」  .





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街外れの山襞に苔むして一人寂しく眠る 「大久保石見守長安」の墓



人家も疎らになった山間の地をゆっくりと車を進めると山裾の緑陰の地、古き石段を少々登ったところの静謐の地に「大久保石見守長安」の墓地があった。

石柵に囲まれた一段上部に供養塔を左に配して中央に墓柱が立てられてあり、後背は竹林になっていて、爽やかな雰囲気でもある。
単一のみの墓地なので寂しさは免れず、忘れられた様にヒッソリとしていた。 
しかし、どことなく手入れは行き届いているようであり、何処かに篤志家がいるのだろう。 


長安の孤独の墓地が銀山跡とは言いながら、一基のみで寂しく祀られているには、それなりの理由があったのである・・!!。


大久保長安については、若くして読んだ山岡荘八の歴史大編「徳川家康」の中で、詳しく登場しているので印象に残っている。


大久保長安」は、最強の戦国大名と謳われていた甲斐の武田信玄に見出されている。 
信玄は、長安の優秀な経理の才能を見抜いて、若くして武田領における「黒川金山」などの鉱山開発や税務などの行政官として務めている。

甲斐武田家を数年で藩内政を再建したと言われているが、武田氏滅亡後、長安は家康の家臣として仕えるようになる。 

家康重臣・大久保忠隣(ただちか)の与力に任じられ、その庇護を受け、この時に姓を「大久保」に改めている。 

関東250万石の内、100万石は家康の直轄領となったが、このときに長安は関東代官頭として家康直轄領の事務采配の一切を任されている。 


1600年、関ヶ原の戦いの後、豊臣氏の支配下にあった佐渡金山や生野銀山などが全て徳川氏の直轄領になり、長安は1600年9月に大和奉行、10月に石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役、1601年春に甲斐奉行、8月に再び石見奉行、9月には美濃奉行など、錚々(そうそう;多くのもののなかで傑出している)たる略歴に任じられている。 

同時に幕府年寄(のちの老中)に列せられ、長安は家康から全国の金銀山の統轄や、これらに付随する一切の奉行職を兼務し、長安の権勢は次第に強大になったと言われる。



長安が石見銀山の初代総奉行に任じられたのは江戸開府の時期で1601~1603年の間とされ、彼は直山制と呼ばれる公費投入による「間歩」(まぶ)の開発を行なうなど、様々な改革を行い「」の増産に務めた。

しかし晩年に入ると、全国鉱山からの金銀採掘量が低下するに従い、それに合わせるように家康の寵愛を失って代官職を次々と罷免され、1613年、脳卒中のために死去している。

享年69歳であった。


長安の事柄は、ここで終わらないのである・・!!。

長安の死後、生前に長安が金山の統轄権を隠れ蓑に、不正蓄財をしていたことが発覚、その理由で長安の遺児は全員処刑され、縁戚関係にあった諸大名も連座処分で改易などの憂き目にあっている。 

更に、こともあろうに家康は埋葬されて半ば腐敗していた長安の遺体を掘り起こして、駿府城下の安倍川の川原で斬首して晒し首にするという行為をやってのけている。 

だが、長安が不正蓄財を行っていたという証拠や見解は殆ど無く、これは近年では幕府内における権勢を盛り返そうと図っていた本多正信・本多正純父子の陰謀とも言われているが・・?。 

又、彼の財力と権勢を警戒した徳川家は、粛清や不正を行い易い他の代官に対する見せしめの意味もあると思われる(大久保長安事件)。 


一説には、長安は家康より政宗(伊達政宗)のほうが天下人に相応しいと考え、政宗の幕府転覆計画に賛同していたとも言われ、ある種、謀反の疑いを懸けられたともされてるが・・?。


一般的評判として、権勢をかさにした長安の立居振る舞いは、死後の風評を含めて決して芳しいとは言えず、その後の調査でも事件の有無に対して名誉回復がされたという記述、意見などは無いとされる。 

このような理由で、大久保長安の石見銀山の墓地は、今も銀山史跡の華やかさとは裏腹に、かけ離れた山裾の野辺の地に、ただ一人で静かに眠っているのである。


尚、大久保石見守の墓は「大安寺跡」に建てられている。
大安寺は慶長10年(1605年)、大久保長安が自分の氏名から2文字をとって建立した寺で、墓はいわゆる逆修墓(ぎゃくしゅぼ)の墓とされている。

逆修とは、「生前に自分の法名をつけて墓を建立すると大きな功徳を得られる」との当時の謂れにちなんで建立した墓である。 
ただし、現存する墓石(五輪塔)やその横の石碑(紀功碑)は寛政6年(1794年)のもので、おそらく長安自身が建てた逆襲墓は家康の仕置き直後には当然ながら壊されていた。

紀功碑(きこうひ;功績を記した碑の碑文)を起草したのは、石見銀山第39代代官となった「菅谷弥五郎」であった。
銀山が凋落の一途をたどる時勢のなか、代官・菅谷弥五郎は石見銀山の再興再来を願い、碑文をしたためたのだろう。
寺地内には創建当時の年号が記された墓石など100基以上がある。


次回は、 銀鉱山・「間歩

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