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2018-04-13(Fri)

平成日本紀行(229) 糸魚川 「姫川」




平成日本紀行(229) 糸魚川 「姫川」 .





http://tetsurohyakkei.web5.jp/gallery03/01/gallery030119.jpg
白馬連峰を望む姫川と大糸線
(提供 http://tetsurohyakkei.web5.jp/tetsurohyakkei.gallery03top.html さん)



「姫川」は、フォッサマグナの西縁、いわゆる糸魚川・静岡構造線に沿って白馬村から糸魚川市まで流れている。
地球規模からいうと、北アメリカプレートがユーラシアプレート(主にアジア・ヨーロッパ大陸の殆どをで、全陸地面積の37%を占めるという)とぶつかり合い、地下深くに潜り込むというの活動が、この姫川流域で地表面や地表近くに出現していると考えられている。 
姫川は、まさに日本列島を東西に分割する大断層に沿って流れる川なのである。


その姫川流域は、北陸の海岸や富山県の翡翠海岸など国内でも有数の翡翠(ひすい)の産地で知られる。 
糸魚川-静岡構造線(フオッサマグナ)に関係する激しい断層活動、造山運動で鉱物の変成作用が起こり、地上に揉(も)みだされ地表付近に出現したといわれる。 
硬玉ヒスイの産地のひとつ姫川支流である小滝川の「ヒスイ峽」の翡翠は特に良質であるといわれ、そのため糸魚川市、青海町の産地共に国の天然記念物に指定され、一般の人の翡翠の採掘は禁じられている。 
現在市場に出ている翡翠宝飾品の大半は海外、主にミャンマー産とみられている。 
東洋では特に重宝がられ、中国では他の宝石よりも価値が高いとされている。 
石言葉は長寿、健康、徳で、緑色のものが最も価値が有るという。


姫川は糸魚川・静岡構造線にそって、南から北へほぼ一直線に流れている。
姫川の源流域は白馬連峰に端を発する支流の松川・平川の扇状地が分布し、平坦な盆地(白馬盆地)を形成しているものの、流域の大半の地形は白馬岳をはじめとする標高2000mを超える山々が連なり非常に急峻である。 
水源は白馬村の親海湿原湧水群(日本100名水)といわれるが、元々の水源は青木湖であったとされ、佐野坂の地すべり堆積物によって堰き止められたと考えられている。 

そのため、親海湿原(およみしつげん)の湧水は青木湖からの浸透水であるともいわれる。
白馬村から発した水流は、北アルプスの北端と妙高山系・雨飾山の山峡の狭い空間を一級河川の「姫川」の急流となって流れている。 
全長わずか58キロで平均勾配100分の1・3、つまり100mにつき1・3m下るという急流である。 
その流域は信州・長野と上越・新潟地方とを結ぶ国道148号線が走る数少ない交通路であり、又、大糸線が並行して走る交通の要衝でもある。 その河岸には道路、鉄道に沿って民家もひしめき合っている。 


姫川は麗々しい名前とは裏腹に「暴れ川」としても知られている。 
その急流さのため豪雨による度々の洪水に襲われている。 土砂災害も絶えず、道路や鉄道が不通となることも度々であり、近年では平成7年の大洪水で鉄道、道路がかなりに亘って流失寸断された。 
又、翌年にはこの災害復旧工事中に土石流が発生し作業員14人が死亡している。
又、姫川は糸魚川・静岡構造線にそって、南から北へほぼ一直線に流れているが、周囲の地質は非常に脆弱(ぜいじゃく)であり、地すべり地形が広く分布する。 
特に千国、小谷地区に到ると山稜が急激に狭まりトンネルが連続するところ、そこに大きな支流の「浦川」(中土駅の北側)が流れ込み、この上流に「稗田山崩れ」という大崩壊地が見られる。 


稗田山崩れは日本三大崩れの一つとも言われ、(富山県立山・「鳶山崩れ」、静岡県安倍川上流・「大谷崩.れ」)明治44年(1911年)、稗田山(ひえだやま・コルチナスキー場の北側)の北側斜面が大崩壊し、大量の岩石土砂が支流の浦川を急流下して姫川河床に堆積し、高さ60m~65mの天然ダムを形成してしまったという。 
堰き止められた姫川は「長瀬湖」と呼ばれる湖を出現させ、川沿いの集落で死者23名、負傷者・水没家屋多数などの甚大な被害を与えた。 
この辺りの集落であった来馬地区の川原の下には、明治時代当時の宿場町が、今でもそのままの形で埋まっているともいわれる。 
「稗田山崩れ」の詳細は以下に・・、

「稗田山崩れ」
http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/d-2.htm 
「稗田山崩れ」
http://orimasa2005.blog101.fc2.com/blog-entry-15.html 



【追記】

「糸魚川」は2009年8月、地質・世界遺産に認定された。
世界的に貴重な断層や火山などを有し、世界遺産の地質版とされる自然公園「世界ジオパーク」に洞爺湖有珠山、糸魚川(新潟県)、島原半島(長崎県)の三地域が日本で初認定された。
地質版の世界遺産とされる「世界ジオパーク」に糸魚川市が認定されたと、市が世界ジオパークネットワーク(GGN:ユネスコ機関)から連絡を受けたもの。 世界ジオパークは貴重な地質遺産を保護し、観光や学習の場として地域振興に役立てていくものとし、ユネスコが支援するGGNが審査し、合格すると認定される。
世界ではこれまで18カ国に58カ所あるが、日本にはなかった。 糸魚川地域は、断層の糸魚川静岡構造線やヒスイ産地の小滝ヒスイ峡、活火山の焼山など豊富な地質資源があり、国内初の認定を目指して昨年GGNに申請していたもので、ガイドマップの作製など認定に向けた準備を進めていた。




気分も晴れやかに、糸魚川の平野から山峡の地へ入り込んでゆく。
白馬方面へ近ずくにしたがって、空模様も明るくなり、小谷村の栂池高原の入り口である「白馬大池」辺りへ来ると、薄日も差して晴れ上がってきたようである。 
山間の地を抜けると、いよいよ白馬村である。 
白馬盆地といわれる山あいの平地が大きく広がり、右手に広大な北アルプス・白馬連峰の峰々が出迎えてくれている。 

昔の旅人は牛馬を連ねて、姫川流域の北アルプスの山峡の急峻な地を、艱難辛苦しながら、はるばる練り歩き超えてきた。 
そして、ここ白馬の平穏な地まで来て初めて一息入れ、おまけに、この絶景を見て心を安め、明日への活力を得たという。 


その白馬三山である主峰・白馬岳、杓子岳、鑓ヶ岳は未だ白き衣を纏ったまま、小生を迎えてくれた、有難かった。 
一事を成し遂げた満足感からも胸が熱くなり、長旅で緊張感がほぐれたことも手伝って目頭が熱くなるのを覚える。 

因みに、地域である白馬村やJR大糸線の白馬駅はいずれも「はくば」と呼称するが、山岳における白馬連峰、白馬岳の呼名は「しろうま」と称してる。 残雪期になると、山の傍に「代かき馬」、「代馬」のような雪形が現れることから代馬から変じて「白馬」になったと言われる。


白馬山系は日本一の高山植物のメッカであり、多くの行楽、登山客を迎え、山麓には長野県はおろか、全国有数の広大なスキー場が広がっている。 
その八方尾根の南側には「白馬のジャンプ台」が隣接している。 ラージヒル、ノーマルヒルと平行して並び、その存在はすぐ確認できるが、夜はライトアップされて、その曲線が美しく、いっそう存在感がある。 


白馬のジャンプ台は、オフシーズンには観光見学用として一般公開している。 
二人乗りのリフトを乗り継いで、透けて見えるデッキプレイとの階段を登るとき、余りの高さに身震いを生じるのである。 
さらに展望デッキへ・・、実際にジャンプ台を生で見ると心の底から「このジャンプ台から飛び降りるなんて、それだけですごい」という気持ちになり、あの長野冬季オリンピックの名場面が浮かんでくるのである。


原田選手が開会式後のインタビューで「鳩になってみようと思います」なんて気の利いたジョークを飛ばしていたが、いいジャンプをすると鳥になったような気分を味わえるというのは、少しもおおげさな表現ではないのだろうと感じる。 

ジャンプ台の下には記念館があって、当時の長野オリンピック、ジャンプ競技の感動的な記録が展示してある。


「終」




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2018-04-12(Thu)

平成日本紀行(229) 糸魚川 「天津神と出雲神」




平成日本紀行(229) 糸魚川 「天津神と出雲神」 .  





 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-248.jpg
天津神社の「けんか祭り」





天津神社と奴奈川神社のことであるが、 

奴奈川姫に言わせれば、憎き相手の大国主であるが、所詮は夫婦の契りを交わし、愛児お一子をもうけているのである。 
その為もあって奴奈川神社では初め主祭神の奴奈川姫だけであったが、後に夫君の大国主を相神として祭っているのである。 
つまり、奴奈川姫の支配する「越の国」は、この後は出雲が統治する国の領域になる。 


一般に、古事記に描かれる日本神話では、日本国土は大きく高天原系(天津神・大和系)と出雲系(国津神・地主神)に分かれていた。 
しかし、元々は天孫族と出雲族はアマテラスの弟がスサノオであるように、高天原出身の同じ一族とされているものであった。 
だが、両者を比べると、その性格はかなり違っていた。 

国譲りの伝説についても出雲の箇所でも述べたが、出雲の神々というは始祖のスサノオと国土開発の英雄・大国主を主人公にしているが、最後には天孫族に屈伏し国の支配権を譲るのである。 

このように出雲の神々はどちらかというと天孫族の敵役といった印象であり、謂わば大国主が造りあげた国土を天孫族が武力で奪っているわけである。

「天津神社」は天孫族のニニギを祀り、その横の「奴奈川神社」は出雲族の首領・奴奈川と大国主を祀っている。 
お互いの神社は仇敵同士のはずであるが・・?、実際は仲良く並社して祀ってある。 
尚、天津神社の「けんか祭り」は二つの神輿が衝突、相争って競う神事で知られるが、この祭りの本来の謂れは不明とある。 
或いは、両社の如く天孫族(大和族)と出雲族の争いを表現しているのではないか、と想像するのは根拠はともかく面白い・・!。


古事記における「出雲の国譲」りは、高天原の神々が大国主に葦原中津国(日本)の支配権を譲るように迫り、遂に承諾させるというもので、武甕槌神(タケミカズチ)と天鳥船神(アマノトリフネ)が剣を突き立てて国譲りを迫るというものである。 
だが大国主の意を息子の健御名方は反対する。 
そこで、健御名方神と武甕槌神の間で力競べが行われ息子の方が敗れてしまう。(この力比べは大相撲の起源ともされる) そのために出雲の国の国譲りが実行されるのであるが、敗れた健御名方神は諏訪まで逃げ、その地に引き籠もって諏訪神社の祭神になったとされている。 


姫川の上流地域の信越国境の小谷村(おたりむら)において、6年(古式で云うと7年)ごとの諏訪大社の御柱祭に併せて、「薙鎌(なぎかま)の神事」(諏訪社前の杉の大木に木づちで薙鎌を打ちつける珍しい祭事。 

薙鎌とは鎌に長い柄の付いた昔の武器、諏訪大社の御神体ともいう)という奇妙な祀りが行われる。この神事の謂れや意義は定かでないが、諏訪の祭神である建御名方命が高天原の神との戦いに破れ、追われて諏訪の地に逃げこんだ際、その時に建御名方命は「諏訪の地からは一歩も出ないので許してください」と懇願したとされる。 
この薙鎌は「ここからは出ない」という標し(しるし)ともいわれるが・・?。

諏訪の大神は「この地から出ない」と約束したため、八百万の神々が出雲に集まるという「神無月」でさえ、この神様だけは諏訪に留まっていて、従って諏訪地方には「神無月」というのは無いのである。 


『 ぬな河の底なる玉 求めて得し玉かも 拾いて得し玉かも あたらしき君が老ゆらく 惜しも 』 万葉集十三巻より


この中の「ぬな河」とは「姫川」のことで、そして「底なる玉」とは「翡翠・ヒスイ」を指しているといわれている。  
古来より翡翠を身につけていると魔除け、厄除けになり、幸運を招くの石として珍重され最高の装飾・装身具として愛用されてきた。 
遠くは縄文期より姫川界隈の翡翠は利用されていたことが知られている。


姫川下流の丘陵地にある縄文時代中期の長者ヶ原遺跡からは、ヒスイの大珠(おおだま)や勾玉(まがたま)、加工道具、工房跡などが昭和20年代から続々と出土されているという。 
即ち、縄文期の紀元前4000年頃の世界最古のヒスイ文化が実証され、古代人に装飾品として愛用されたヒスイは、この糸魚川地方から北海道より九州まで全国に行き渡っていたことも明らかになっている。 

更に、糸魚川から全国へ、海から遠く隔たった内陸部や大平洋岸までヒスイが運ばれているという。 
陸奥の国(青森)の「三内丸山遺跡」は、縄文期の4000~5000年前の遺跡と言われるが、ここでも多量の遺跡の中に、当地の翡翠は相当数発見されているという。

その後の神話と歴史が混在する弥生時代後期から古墳時代には、古志(越)の国の「奴奈川姫」という女王が翡翠の勾玉を身につけ霊力を発揮して統治していた。 
古代人は、勾玉というのは神霊の依り代とも考えられていたもので、重要な神宝として神祭の儀式には必ず用いられた。 このような重要な祭器であったから、特に霊力の強い勾玉は「三種の神器」の一つとなったといわれる。

この神器は、神話では国生みの神・伊邪那岐(イザナギ)が、天照大神に高天原の統治権の象徴として三種の神器を与えたものとされ、邇邇芸命(ニニギ)が天孫降臨の際、これをお護り・御守りとして持参し地上に降り立ったといわれる。 
後に神武天皇まで継承され、天皇家の三種の神器の一つとなった。


三種の神器とは王の権威を表すもので、神鏡=八咫鏡(やたのかがみ)、神剣=草薙剣(くさなぎのつるぎ)、それに、神璽(しんじ)=八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)とされる。 

鏡と剣と勾玉は、古来日本民族が愛し崇敬してきた対象であったが、特に皇宮に永く継承されている三種の神器は、日本全体の祖神ともいうべき「天照大神」の時代に端を発し、日本の歴史において特別重要な意味をもっている。 そして元来それは君民一体の日本民族の精神であり、心の拠り所とされるものでもある。

神のしるしである神璽と呼ばれる「八坂瓊勾玉」は、翡翠などの石を磨いてつくった勾玉(,カンマのような形の玉)をたくさん紐でつないで首飾り状にしたもので、製作者は玉祖命(タマノオヤノミコト)と呼ばれる職人集団の祖神とされる。 
玉祖命は岩戸隠れの際に八尺瓊勾玉を作り、その際、天孫降臨の時ニニギに附き従って天降るよう命じられ、五伴緒(いつとものお:ニニギの降臨に従った五神)の一神として随伴したという。 

家庭の神棚の向かって右側に飾る眞榊は、この天の岩屋の前に神々がお立てになった、鏡と勾玉をかけた神木を模したものといわれる。


次回、「姫川





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2018-04-10(Tue)

平成日本紀行(229) 糸魚川 「奴奈川姫と翡翠」



平成日本紀行(229) 糸魚川 「奴奈川姫と翡翠」 .




http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-246.jpg



 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-247.jpg
奴奈川神社と天津神社の各本殿






親不知ピアパークを横に見ながら、青海から姫川を渡り「糸魚川」に着いた。 
思えば昨年秋、日本周遊の旅へ出発した折、先ず、東日本を巡る旅程でここ糸魚川より日本海を北上して行ったものである。 
そして遂に今日この日、西日本周遊を終えて同じ地に立ち、日本一周を完遂したのである。 

先ずは、自分自身に「オメデトウ」といってやりたい。
ここからは内陸・松本へ通じる、所謂、往時の「塩の道」と言われた千国街道(糸魚川から言うと松本街道、松本から言うと糸魚川街道)のR148を行くことになる。 
姫川の流れが「お帰りなさい・・」と言ってくれている様である。 

大儀・・!!、大儀・・!!。


前回、東日本周遊の際は、この姫川の糸魚川を経て日本海沿いを北上していったのであるが、その時、姫川や翡翠、糸魚川-静岡構造線(フオッサマグナ)のことは若干であるが述べた。ここでは更に、糸魚川や姫川、その周辺について伝承的な意味合いで検証してみたいと思う。

尚、2005年(平成17年)3月19日:旧糸魚川市、能生町、青海町が合併して現在の糸魚川市となっている。
糸魚川の南駅前に「ヒスイ王国館」という仰々しい名前の御土産屋がある。 
駅前から海岸に向って進むと大町の商店街にこざっぱりした公園がある。 
ここは以前の旧糸魚川市役所の跡地でもあり、この一角に「奴奈川姫の像」が建つ。 
その像は、左手にヒスイを持ち、下につかまっている子供は「建御名尊」(タケミナカタ)だそうである。 
又、駅南側の現市役所の西隣に「天津神社」、「奴奈川神社」が同一敷地内に並んで建ち、殆ど同じような造りの建物で、いずれも市街地の中にコンモリとした深い緑に囲まれて鎮座している。

奴奈川神社・本殿内部には平安期・藤原時代風の木造「奴奈川姫像」が安置してあり、又、天津神社の祭神は、中央に天津彦々火瓊々杵尊 (ニニギ)、左が天児屋根命 (アメノコヤネ)、右が太玉命 フトダマノミコト)である。 

ニニギは御存じ九州・高千穂に降臨した天孫降臨の祖であり、又、天児屋命も日本神話に登場する神で岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出したとされる。 そして天孫降臨の際ニニギに随伴し、中臣氏(藤原氏、神事・祭祀をつかさどった中央豪族)などの祖となったとされる。 
所謂、この三神は天孫族(大和朝廷系)の神々である。
天津神社は糸魚川一の宮で、近年は 「けんか祭」 として知られている。 
近郷近在では昔から 「十日の祭り」 と呼ばれ、祭日は毎年4月10日で、この日待って春はかけ足でやってくるといわれる。 
一方の奴奈川神社の祭神は、奴奈川姫命で後年に八千矛命(ヤチホコノミコ)を合祀したという。 
両神は夫婦神であり、八千矛命は出雲の大国主の別称でもある。


昔、高志、古志の国(越の国)の豪族で、その姫の名を奴奈川姫(ヌナカワヒメ)と称し、現在の新潟県西頸城郡を支配していた古代女王であったともされる(古事記)。 
糸魚川や青海地方の特産品である祭祀具・翡翠を支配する巫女であったとも言われる。 
奴奈川姫という名は、「奴奈川」つまり糸魚川市を流れる「姫川」のことで、当地方の女王を意味しており、又は、個人名ではなくこの地方の代々の女王一般を指す場合もあるともいう。

この頃、出雲の国を中心に勢力を各地に伸ばしていた大国主の命は、能登半島に上陸し少名彦命と力を合わせ、地方を平定開拓するともに、越(高志、古志)の国の貴石・翡翠の覇権と美姫と噂された奴奈河姫を求めて越の国に渡ることになる。 

大国主は一旦、能登の国に漂着し、邑知平野(おうちへいや)を開拓(七尾市・気多本宮、羽咋市・気多大社)し、伏木港より越の国の居多ヶ浜(上越市)に上陸、身能輪山周辺に居を構えたとされる。(居多ヶ浜や身能輪山は現在の上越市・直江津の西海岸とその近辺で、往時は越後国府があり、又、すぐ南に上杉謙信の「春日山」も在る) そして越後の開拓や農耕技術、砂鉄の精錬技術などを伝えたという。

美姫・奴奈河姫に想いを寄せていた地元の根知彦は、大国主の出現にひどく怒り居所の身能輪山に乱入したが結局、大国主が勝利し、姫の元に通いながら結婚することになつた。 
その後、奴奈川姫と大国主命の間に男子が生まれる。 
この息子が諏訪大社の祭神・建御名方命である。


一般には、奴奈川姫と大国主神の物語は神代のロマンなどといわれているが、古事記における二人の問答を見る限りでは二人の出会いはかなり非情なものであったともいわれる。 
大国主神は侵略と脅しで姫を追い詰め、一方の奴奈川姫はひたすら命乞いをしていたともされている。 
結局、奴奈川姫は大国主の子である建御名方命を産むのであるが、奴奈川神社(大正10年再建)の社伝によると、その後、姫は大国主の手から逃れ、悲運を辿ることになるという。 
その息子の建御名方命(タケミナカタ)は地元の女神である八坂刀女姫と結ばれ、建御名方命は諏訪上社に、八坂刀女姫は諏訪下社に祀られている。 
真冬に諏訪湖の氷が盛り上がって割れる「御神渡り」は建御名方命が八坂刀女姫のもとに通ってできるものだといわれている。


暫くして、大国主命は本国の出雲に帰ることになるが、姫に一緒に出雲へ来るように説得する。 しかし、姫は出雲へ行くことを嫌った。 
それは出雲には大国主の別な妃もいたし、それに大切な翡翠を守るという使命があったともいう。 
それでも大国主は強引に連れて帰ろうとするが、姫は途中で逃げ出し追手に追われることになる。 
そこで姫は姫川の奥深く逃げ込んだが、追っ手が厳しくなり無念の自殺をしたという。 
又一方では、途中で諏訪から息子が迎えに来て、姫川山中で余生を送ったともいわれる。 
姫川沿いには、姫にまつわる伝承や史跡が多数残るという。


次回は、「天津神と出雲神」

2018-04-09(Mon)

平成日本紀行(228) 親不知 「親不知・子不知」





 平成日本紀行(228) 親不知 「親不知・子不知」  .





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写真:国道沿いに建つ「親不知親子の像」




 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-243.jpg
写真:旧国道(親不知の見所)




 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-244.jpg
建設当時岩壁に彫られた文字「如砥如矢」




http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-245.jpg
写真:現在の親不知の景観






市振から天険トンネルを抜けると国道沿いにひっそりとした、その名も「天険」というドライブインがあった。 
営業しているのか、いないのか全く明らかでない休憩所であるが、一角に「親子が肩に荷物を背負って旅路を行く像」が立っている。 
そう、ここは天下の険「親不知子不知」の中枢の地である。

無断で車を置かせてもらい、海側の細い道を辿ると旧道と思しき草生した道へ出た。 
一組のご夫婦らしい人がせっせと縁柵の補修をしているようで、ノンビリしたもので訪れた客らしい者は小生のみであった。 

珍しそうに、取り留めない話の後、
「昔は、ここは絶壁に草ぐらいしか生えておらんで、そりゃ下見ると断崖絶壁がモロで、恐ろしげな処じゃッた・・、だが今は草木が生い茂って見通しも悪く、迫力がまるで無くなったワサ・・」 
「いっそのこと木々を切り払ったら、もっと、らしゅうになるけんに」
という。 

確かに言われるとおり、樹木が生い茂って見通しが悪く、木々の間から海面が見えてる程度であるが、しかし、足下急落している様子は十分に感じられる。 

この道は国道8号線の旧道で明治初年(16年)に開通している。
現在では町道に格下げとなっているが親不知の最大のポイントに成っていて、天険・親不知観光の拠点にもなっている。 
山側を振り返えると切り裂いたような絶壁がそそり立っている。その岩肌に『如砥如矢』と彫ってあった。

その下に解説版が有って・・、
『 ここは、親不知の最難関“天険”の真上にあたる。気をつけて足下100mを覗いてみよう、波寄せる渚が“昔の北陸道”であり、旅人は命がけで通行していた。  明治16年、絶壁を削って、今立っているこの道ができた。その喜びを一枚岩に刻んで表したのが、「如砥如矢」である。砥石のように滑らかで、矢のように早く通れるという意味で、この道の開削に尽力した“青海”の人、富岳磯平の書といわれる・・糸魚川 』 と記してある。
ここは親不知でも最も厳しい所で、天険の断崖と言われる地であった。

この地を明治27年、33歳のW・ウェストン(イギリス人宣教師・探検家で、『日本アルプスの登山と探検』を著した人物)が北アルプスの登攀に臨む前に、ここ親不知を訪れ手記を残している。
『 青海(十二時)で、申し出により車夫を替えた。 親不知へ進み、午後二時に到着。すばらしい絶壁の風景とみごとな海。 注意。かめ岩、猫岩、駒返の崖。子不知(八町)トンネルから親不知、私は歩いて通過、七、八町。 二時に着いた。たいへんすばらしい。三百フィートもある花崗岩の絶壁。低木の茂る岩山のはげたところに碑文がある。この道を開鑿した人が刻んだ「如砥如矢」を通過。「詩経」(中国の古典、一流の詩人)からの引用だという。 
彼が完成させたばかりの道が「矢のように真直で、砥石のように滑らか」との意味である 』
(日本アルプス登攀日記,W・ウェストン)

これより後にウォルター・ウェストンは、「白馬岳」を登り北アルプスを踏破している。
W・ウェストンの日本での知名度(特に山岳関係、山愛好者)はその本業より、日本の自然や山岳を紹介した人物として知られ、又、日本における山岳会(日本山岳会)の創設を促し、近代登山はウェストンから始まったとも云われる。


天下の険、「親不知・子不知」というのは、一般に親不知から青海の間を「子不知の難所」といい、親不知から市振の間を「親不知の難所」と呼んでいるようである。 
北アルプスの白馬岳の北端がガクッと日本海に崩れ落ちて、古来より北陸道の最大の難所として知られている。 両側に断崖と荒波が迫り、旅人が危険を冒して通過したといわれ、幾多の遭難悲話も伝えられている。 
同時に日本海に迫る懸崖、絶壁、岩礁、など大断崖を成す雄大な自然景観は比類がないともいわれる。 
又、糸魚川静岡構造線の日本海側の端に当たり、この親不知を境に北陸地方は二分され、東と西で地質構造や風土・文化が大きく異なるともいわれている。

親不知の道は明治16年に、高所に崖を切り裂いて新道(国道8号線の旧道の前進)を造成したが、それ以前は波打ち際に細々とした道があったに過ぎない。 芭蕉が通った頃は無論、波打ち際の道であったが、一行が難所の「親不知越え」にかかった頃は、季節はまだ夏、海も穏やかで何のトラブルもなかったようだ。

それでも「奥の細道」には、
『今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越て、つかれ侍れば、』 と記している。


「親不知」の名称の由来は幾つの説があるが、一説では、断崖と波が険しいため、「親は子を、子は親を省みる事ができない程に険しい道」である事から、このような名称が付されている。 
又、伝承もあり、壇ノ浦の戦い後に助命された平頼盛は、越後国で落人として暮らしていた。
この事を聞きつけた奥方は、京都から遥々(はるばる)越後国を目指して、この難所に差し掛かった。 ところが、難所を越える際に連れていた子供が波にさらわれてしまい、その時、次のような悲しみの歌を詠んだとされる。

『 親知らず 子はこの浦の 波枕 
越路の磯の 泡と消え行く
 』

以後、その子供がさらわれた浦を「親不知」と呼ぶようになったともいわれる。

国道8号線は一部トンネルも有るが、岸壁を削り取って何とかオープンで通っている。 だが、鉄道の北陸本線は7~8割はトンネルである。 そして、近年開通した北陸自動車道(高速)は、殆どがトンネルと海上の高架橋を通っている。 

この海上を通る高速道は、天下の険と相俟って一つの美的景観の構図となっていて、観光用パンフレットでお馴染みでもある。 近くには親不知にインターチェンジや道の駅・「親不知ピアパーク」も設置され、観光にも力を入れているようである。


次回は、「糸魚川




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2018-04-08(Sun)

平成日本紀行(227) 越中境 「市振の関」




 平成日本紀行(227) 越中境 「市振の関」  .





 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-240.jpg




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市振の関(2枚)






国道8号線を東進するに従って、屏風のような山塊が迫ってくる。 
後立山連峰・白馬岳の支脈が北方へ延びて日本海に落ちているのである。 そのため各交通路である国道、高速道、北陸本線等は海側の縁へ追いやられ、狭い区域を接近しながら通っている。


海の端に「越中境」という地域があり、往時は加賀藩最大の関所があった処である。 
越後に通じる親不知の難所を控え、交通の要所を押さえるように国境に設置されたもので、以前、戦国期の抗争には上杉や椎名、佐々等の名だたる武将たちが国境の攻防に凌ぎを削る合戦の拠点ともなった場所である。 
やがて江戸時代は前田・加賀藩の統治下になり、親不知を控えた越中の東縁(ひがしへり)という地理的条件から越中の境に関所が設けられ、街道筋の「泊」は交通の要衝となり、宿場町として栄えた。



この先、小さな川であるが「境川」といって越中越後の国境の川である。 
国道には新潟県との標識が目に付いた、いよいよ最終ラウンドの新潟へ入ったという実感が身にしみる。

間もなく「道の駅・市振の関」があった。 
山地が海岸まで迫るこの地域にしては、意外と思うほどのゆとりある敷地を有している。 
こちらで一服入れる。
間もなく国道に面して北陸線の「市振駅」(いちぶり)が見えた、木造平屋のやや古びた民家のような駅であったし、当然無人駅の様な佇まいである。 
国道に「市振の関」と案内板があったので寄ることにした。

旧道であろう市振集落、玉ノ木集落があり、その市振の集落の小学校の一角に「関所跡」や碑があった。 
こちらも境の関所同様、幕府が越後・高田藩主・松平氏(徳川譜代)に命じて市振の関を築いたとされる。 
これは隣国の有力な外様大名・前田氏を牽制するためでもあった。 
又、この地は北アルプスが日本海に落ち込むところ、近くには親不知の難所が控えていて海岸平野部はないに等しい。 
従って、険路である危うい波打ち際を避けて舟で通過しようとする者を、海上から監視する「遠見番所」も併設されていたという。
近くに「長円寺」という古寺があり、ここに芭蕉の句を記念する句碑が建っている。 


「市振」の地名は、芭蕉の「奥の細道」の句と共に登場する。

『 一家に 遊女もねたり 萩と月 』
(ひとつやに  ゆうじょもねたり  はぎとつき)


そして「奥の細道」の一文・・、

『・・今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人計ときこゆ。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。 白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と、泪を落す。不便の事には侍れども、「我々は所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。 神明の加護、かならず恙なかるべし」と、云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし・・』



芭蕉は、越後・能生町を出発、糸魚川で休憩、夕刻、市振に到着し「桔梗屋」という旅籠(はたご)に宿泊したと地元では言っている。 
宿舎には宿帳記載も無く、本文のような事実は曾良の随行記にも無いので、この遊女の一件は虚構であろうとも言われているが・・?。 
それは兎も角、本文では、若き女性が(遊女)が「お伊勢さん」へ参るには大変な道中であり、それが為に「芭蕉」を修行僧と観た遊女らは 同行を頼むのであった。 

だが、彼はあっさり、つれなく断っている。 
普通、若い女性にモノを頼まれれば断れないのが男というもんであろう・・!、芭蕉は私的な道中の他に、公的な役割を担っていた(隠密・・?)ともいわれるが・・?。 


いずれにしてもこの先、伊勢へ参るには北陸道から若狭(敦賀)へ出て、琵琶湖、米原を経ながら鈴鹿峠から津を越え、伊勢に到るのであろうが、実に500~600kmの長道中である。 
当時、一生に一度は伊勢神宮参詣は庶民の夢であったといわれるが、芳紀女性同士の遠路の旅路で、何の願掛けか・・想像するだに難い・・・?!。



次回は「親不知

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