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2016-12-28(Wed)

平成日本紀行(165)日向 「耳川の戦い」 





『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/





 平成日本紀行(165)日向 「耳川の戦い」   




https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/45/Mimikawa_Misato_Saigo_01.JPG
古戦場であった今の耳川







「日本一周の旅の記録」へリンクします
 

九州の「関が原」と言われる「耳川の戦い」が・・、

国道10号線を快適に北上する。
川南町、都農町は日向灘に開けた明るい地域で、大部分が台地状の所謂、西高東低の、ゆるやかに傾斜した高台となっている。 
広大な畑作が広がっていて、きっと南国豊かな農業生産が主体の地域であろうことが想像できる。

日豊本線を跨ぐように、直線の高架線が走っている。 
以前になるが日豊本線の都農駅から美々津駅まで、リニアモーターカーの実験が行われていた所らしく、現在は、実験の舞台が山梨に移されていて、施設は取り壊されることなく現在もそこに居残っているのであろう。 

まもなく、日向市に入り「美々津」という港へきたようだ、清流・耳川の河口に当る。
耳川は一般の川の趣きとは異なり、巨大な中州を持つ湖のような泰然とした川である。 
川面は珍しく青緑、エメラルドグリーン、黄緑と天候や見る場所によって色が変化する不思議な川だという、五色川ともいうべきか。 
耳川は、九州山地(椎葉村三方山)に源を発し東へ向かって宮崎平野を流れ、日向市美々津町から日向灘に注いいでいる、長さ100kmの水系で美々津川とも呼ばれているらしい。


この川に「幻の魚」と呼ばれる、「アカメ」という魚が生息することでも知られてる。 スズキ目アカメ科の魚で、名前の通り目が赤く、北川、耳川のほか、高知県の四万十河口域など汽水域(真水と淡水が混じった水域)に生息し、体長1メートル、重さ20kの巨大魚になるという。 地元では“マルカ”とも呼ばれているらしい。 
尤もアカメは、ここ数年は魚影が見られなくなって、2007年には環境省のレッドリストの中の「絶滅危惧種」に指定されているとか。


ところで、往時はやはり「耳川」も河川流通路としての重要な地位を占めていたという。 
江戸期、この地方の産物である木材や炭を高瀬舟で河口の美々津に集め、大型船・千石船で大阪方面に送り出していた。
当時の美々津はそれら特産物の積出港として大いに賑わい、元禄年間には回船問屋や商家が数多く軒を連ね、「美々津千軒」とも呼ばれるほどの繁栄ぶりであったという。

現在、美々津、耳川の南部、国道10号線と海岸に挟まれた狭い一角は、江戸時代の回船問屋や明治、大正、昭和初期の商家などが数多く残されれており、当時の隆盛ぶりを知る事ができる。 
中でも現在、日向市歴史民族資料館となっている元廻船問屋・旧河内屋は間口が広く、美しい京格子と白壁で当時の繁栄を偲ばせている。
この美々津の町並みは、1986年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。


この耳川の南部地区は今でこそ鄙びた景観を呈しているが、この周辺、特に木城町にかけては古戦場としても今なお秘められた足跡を残しているという。 
戦国期の天正6年、九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(木城町)を主戦場として激突した合戦で、「耳川の戦い」とも云われる。  ぞくに九州の「関が原」とも言われる。


九州の覇者「大友氏」(九州探題)と九州南部に勢力を持ち北部への進出を目論んでいた「島津氏」、この両者が九州の覇権をかけて戦いで主戦場は高城地区の(現、木城町南部)、そこを流れる小丸川を境に両軍は対峙することとなる。 
激戦の末、勝敗は大友軍が三千余の将卒を失い、壊滅状態となって敗退した。 
大友方は、さらに敗走する途中、城の北方の耳川で島津軍の迫撃に合い、戦死者の総数は二万人にも達したともいわれる。 

結果は、島津氏が勝利し九州の覇権は島津氏に移って行くが、更にそのことが起因して、天下を平定しつつある豊臣秀吉の九州出兵を促す原因となる。 
結末は秀吉軍が島津を抑えて、九州地方は平定されることになるのだが。


ところで、この合戦に島津勢が勝利した戦いを「耳川の合戦」と呼ばれるが、一方では、主戦場は耳川ではなく、宮崎県児湯郡木城町にある高城城下の高城川(現在の小丸川)であることから、「高城の戦い」とするのが妥当とする向きもある。 

耳川と高城川は、南北に凡そ20キロ離れているが、豊後地方に勢力をもつ大友軍から見ると、この耳川は南進北帰の生命線であり、そしてこの地で追撃する島津軍に完敗した地であることから「耳川の合戦」が妥当であるとも言われる。

その後、大友宗麟の要請もあり九州攻略のため本州勢力の秀吉軍が大挙して島津軍を攻めることになる、この時の主戦場がやはり高城であった。
秀吉の先鋒として戦ったのが大友の残兵(大友義統)でもあり、結果、秀吉軍が勝利したため大友家は豊後一国を安堵されている。 
この戦は「高城の戦い」とも称している。


次回は、日向・「美々津

  
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2016-12-27(Tue)

平成日本紀行(164) 佐土原 「泉光院・旅日記」

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 平成日本紀行(164) 佐土原 「泉光院・旅日記」   ,




石川英輔著 『泉光院・江戸旅日記』の本





「日本一周の旅の記録」へリンクします
 

「厳重を極めたといわれる箱根の関所も、江戸後期ともなると、」 
野田泉光院の『日本九峰修行日記』より、


泉光院は文化9年9月(1812年10月)に佐土原を出発、全国の諸山を巡る修行と九州・鹿児島から北は出羽・本荘まで全国各地を訪れ、文政元年11月(1816年12月)佐土原に帰国している。 実に6年2ヶ月にわたる旅を『日本九峰修業日記』に書き残している。

この時、泉光院が江戸表の島津家の江戸藩邸に入参した時期は文化14年4月であった。 合わせて江戸藩邸の先代藩主・島津忠持と会談しているが、「恐れあらば記さず」(業務上の秘密)として、記載されていない。
この書は旅道中に関して表向き(政治や経済のこと)のことは一切記されていないが、江戸の仇敵とされる主家・島津家に対しては、相応の内実情報がもたらされたことは想像できる。 

どちらかといえば、書は当時の風俗を生き生きと活写しているのが特徴で、歴史家によれば貴重な史料として高く評価されているともいわれる。


前記したが佐土原は中世の頃、伊東氏から島津氏へと領主が代わっている。
鎌倉時代において佐土原・伊東氏は、鹿児島で勢力を伸ばしてきた島津氏と日向の支配をめぐって激しい戦いが繰り広げられ、徐々に島津氏が優勢となり、遂に伊東氏は豊後国へと追い払って島津の支配が始まる。 

「関が原の戦」で島津は徳川に破れ苦杯と怨念を強いられるが九州南部は安堵され、最初の佐土原城主は島津家久、次いで江戸期以降には島津の支配体制が整っていく。 

野田泉光院の全国行脚の時期は江戸後期であり、当時の佐土原は島津の支配下にあって、島津氏より相当の援助があったことは伺える。

江戸末期、この江戸薩摩藩邸が騒がしくなるのは50年後の事である。


ところで、江戸後期の泉光院行脚中時代は、伊能忠敬が「大日本沿海輿地全図」を完成しているし(1814年)、当時の文化・文政の時代(1800年前期)には、十返舎一九が「東海道中膝栗毛」初編を著し(1802年)、間宮林蔵が樺太を探検している(1814年)。 又、葛飾北斎の「富嶽三十六景」ができ(1832年)、歌川広重の「東海道五十三次」ができる(1833年)など、各階、各層の人々の諸国漫遊も盛んであったのである。




因みに、作家・石川英輔氏の「泉光院江戸旅日記」の中で、小生の居住地である神奈川県厚木市近郊の“くだり”について抜粋してみると・・、

『 文化十四年丁丑(ていちゅう)元年:西暦1817年2月16日・・五月八日(6月22日)~十日(24日)鎌倉の主要な神社仏閣巡り・・・藤沢から寒川泊まり、 十一日(25日)相模一の宮(寒川神社)そして四之宮(平塚・前鳥神社)を参回している。 ここでお供の平四郎が二と三はいいんですかい・・と理屈をいったが、泉光院は無視している--平塚八幡、坂東札所・金目山(第七番・光明寺)へ参って納経印をもらいに行くと、住職に笈仏(箱に収まっている戒名)を開帳して欲しいと頼まれた。 長々、読経せられたり・・。石田村(伊勢原市石田)の浄心寺泊り。 十二日(26日)大雨なので、「憂きことの はてや旅路の 五月雨」と一句作ったら、住職が見て、それほど雨が難儀なら、もう1日いなされ、といってくれた・・、幸いなりと滞在す。かようなるときは発句も役に立つものなり・・。 十三日(27日)、アツ木(厚木市)へ出て相模川を船で渡り、相模国分寺(海老名市国分)参詣。坂東札所・星の谷(第八番星谷寺・座間入谷)の門前に泊まった。 十四日(28日)、坂東札所・飯山寺(第六番・長谷寺(厚木市飯山)、日向薬師(伊勢原市日向)に参り、門前に泊まった。 十五日(29日)大山不動尊(伊勢原市大山)に参詣、菖蒲団子というものを買うて数十匹の犬に食わす・・。 尾尻村(秦野市尾尻)の寺に泊めてもらう。 十六日(30日)十六日坂東札所・飯泉山(第五番・勝福寺 ・小田原市飯泉)参詣。酒匂川を渡って塚原村(同市塚原)泊まり。 十七日(7月1日)この家に笈(背負う荷物箱)を預けて道了尊(最乗寺)へ上って参詣す。――― 十八日(2日)箱根山を登って関所を通ろうとしたところ、引っかかってしまった。  役人「その方ども、江戸屋敷からの関所手形を出せ」 「われわれは日本回国の行者で往来手形はあるが、他には存じませぬ」 「 江戸屋敷へ行って頼むことが出来るはずだ・・」 「 江戸屋敷は存じません、又、お屋敷へ出るほどの身分ではございません」 「そのほうら名を何と申す・・」 「私は一葉坊、この者は合力助と申します」 「今回は内聞で通してやる、次回はそうはいかんぞ・・!!」 「へい・・」・・泉光院が名乗った一葉坊は俳号であった・・、役人とのやりとりが面白いし、関所も、そこそこいい加減であったことが判る。 』



以上本文よりであるが、神奈川県の鎌倉へ入って、箱根を出るまでの神奈川県央、県西部にかけて11日間を要している。 
その気になれば山道を1日60kmをも平気で歩き通せる頑健な人であるが、この相模地方は意外とゆっくり、じっくり歩を進めていることが判る。
見所が多かったのであろう。

因みに、坂東札所・星の谷(第八番・星谷寺・座間入谷)には、当時のメモ帳なる「つづれ草」が置かれていて、ここを訪れた泉光院のことが記されている。

『 「つづれ草」37号に書いた「野田泉光院」の廻国修験僧、日向の国・佐土原の泉光院が星谷寺に参詣した文化十三年五月十三日当時の住職は「周應」であったはずである。在住期間も長いし、過去帳を整備するなどの事績もあった 』、とある。

気が付くのは泉光院が記した『日本九峰修行日記』には文化十四年五月十三日とあるが、星谷寺の記録には文化十三年五月十三日になっている、丁度一年違いになっているが・・??。


次回は、日向・「九州の関が原

  
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2016-12-24(Sat)

平成日本紀行(164) 佐土原 「佐野原聖地」






 平成日本紀行(164) 佐土原 「佐野原聖地」   、





http://miyazaki-archive.jp/d-museum/files/exhibition/images/3021/image01.jpg





http://livedoor.blogimg.jp/sum56583/imgs/a/1/a1e2830a.jpg






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佐土原は、神武天皇の幼少時の名前・「サノハルノミコト」から起こった・・!

一旦、一ッ葉道路に戻って間もなくすると海岸から離れて10号線に合流する。
ここは既に佐土原である。 
九州流に言うと“サドバル”であるが、こちらは標準語らしく“サドワラ”と読むらしい。 


こちら佐土原も、伝承では「神武天皇」が誕生された地とされている。
佐土原町上田島地区の小高い丘、昼なお暗く鬱蒼と茂る木々の中に、ぽつんと小さな「」が鎮座している。 
この地が「佐野原聖地」と呼ばれる聖なる地というが、拝殿や賽銭箱などはなく小さな社が一つ鎮座しているのみである。 社の扉には鍵が掛けられているが壊れかけていて、まるで森の中に放置されたような空間、年月から無視されたように建っている。 
後に、大和の国を平定した人(神)が生まれた場所にしては、あまりに寂しいのである。

佐土原は、始めサノハルと称し「サノハルノミコト」(サノノミコト)は、神武天皇の幼少時の名前である。 

この社は、都於郡(とのこおり:現、西都市)から宮居を遷し、鵜茸草茸不合命(ウガヤフキアエズ)が天下を治め、玉依姫命(タマヨリヒメ)を妻に迎えたとされる地で、後に神武天皇が生まれた場所でもあるという。
日本の初代天皇の聖地としては余りに粗末であると思われるのである。




鎌倉期以降の「佐土原」について・・、
ところで、鎌倉期に源頼朝から日向国・地頭職に任命された工藤祐経が佐土原を支配し、この時期に佐土原神社が創建されたといわれる。
工藤氏は姓を本来の姓である伊東と変えながら400余年に亘り、この地の支配体制を確立している。 第10代・伊東義祐の頃には佐土原城を中心とし日向・四十八城を支配したともされている。

日向・飫肥(おび)の項でも記したが・・、
工藤祐経は鎌倉のお膝元で起きた「曽我兄弟の変」の主たる登場人物で、当の本人は兄弟の仇討ちで殺されてしまう。 

では何故、佐土原の初代領主なのか・・? 
鎌倉期、既に領地を与えられていた祐経本人は鎌倉の地で頼朝の信任厚き重臣として務めを果たしているのであり、領地の管理は、その代官が行っていた。

祐経亡き後、その子伊東祐時の四男祐明、つまり工藤祐経の孫が現地に赴いて実質拝領し、初代「田島氏」と称した。 
佐土原は、当初は「田島の庄」とも呼ばれていたからである。 

佐土原城は戦国期に伊東氏の中心的城郭となり、伊東義祐が居城した頃が全盛期と言われる。
戦国期、島津氏の大軍は伊東氏の本拠である佐土原を目指して進撃を開始し、戦況不利と見た義祐は戦わずして退却し、豊後の大友氏を頼い、大友宗麟はその要請をいれて伊東義祐らを庇護した。 
その後、大友軍は島津軍と戦ったが敗戦、兵を退くところを追撃され「耳川の戦い」で潰滅的敗北を喫し、こうして、大友氏も一気に勢力を失墜することになった。 


奇しくも、伊東氏の出実は伊豆の「伊東の荘」であり、大友氏の出実は相模の小田原の「大友郷」である。 
伊豆と小田原はほぼ隣接していて、東国の雄は親しく九州でも隣国同士となり、共に滅び去ったのである。 

そして滅ぼした当の島津氏も大元(初代都城:島津忠久)は頼朝のご落胤との説もあり、この三者とも頼朝のお声がかりで、九州の平家残党の抑えとして派遣された共通目的があった。

これも歴史の面白さであろう。


次回は、佐土原の「野田泉光院

  
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2016-12-23(Fri)

平成日本紀行(163)宮崎 「神武天皇」





平成日本紀行(163)宮崎 「神武天皇」 ,






写真:宮崎神宮、神門より拝殿



【神武天皇の譜系】








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宮崎神宮」は、地元では親しみを込めて「神武(じんむ)さま」と呼ばれていて、神倭磐余彦命(カムヤマトイワレヒコノミコト)=神武天皇(初代の天皇)を主祭神とし、父君・ウガヤフキアエズ、母君のタマヨリヒメ(玉依姫命)を相神としている。 
創建は社伝によると神代までさかのぼるが、現在の社殿は明治40 年に建て替えられたものという。 

社伝によれば、鎮座地である宮崎は、神武天皇が東征以前に宮を営んだ地で、後に九州に下向してきた天皇の孫とされる建磐龍命(タケイワタツノミコト)が、その縁に因んでこの地に創祀したという。
この神は、日本神話にも登場する人物で、阿蘇神社の主祭神であり、神武天皇の孫として皇統に組み込まれているが、元々は阿蘇で信仰されていた阿蘇山の神とみられる。


最初の天皇といわれる神武天皇が誕生した地は、同県内の高原町の「皇子原」といい、奇しくも、祖神であるニニギが降臨したとされる高千穂峰の山麓に当たる。 
幼名が「狭野尊」(サノノミコト)といわれたため同地に「狭野神社」が祀られている。
その後、宮崎神宮に西方、「皇宮屋」(下北方町)というところに住むようになった。

45 歳の時、「 東に良いところがあると聞く。恐らくそこが日本の中心地だろう。そこに行って都を造るに限る・・」と察し、彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)稲飯命(イナヒノミコト)と共に全国統一をめざして兄弟三人で日向を発つ。 
そして現在の日向市の美々津(みみつ)港から船で東方へ旅立ったと伝えられている。(詳細は美々津の項で記載) 


天下を統一し、政治(まつりごと)を行うべく、はるばる東遷の途に立たれたが、神武天皇は直接、大和に入ったのではなく、いろいろと寄り道をしている。 
日向⇒宇佐⇒筑紫の国の岡水門(おかのみなと)⇒安芸の国の埃宮(えのみや)⇒吉備の国の高島宮(たかしまのみや)と、数年かけている。

その後、浪速の津(大阪)へ上陸して生駒山の方から大和に入ろうとする。
ところが大和の長髄彦(ナガスネヒコ)の激しい抵抗に合い、進路を阻まれる。
このとき、神武天皇の長兄のヒコイツセは傷を負い、それが元で亡くなっている。 

神武天皇は、「太陽に向かって攻撃するのが良くない」として、熊野のほうに迂回する。 
回り道をし熊野の地にたどり着いたが、今度は、熊野の荒ぶれる神の毒気に当たり病に伏せる。
元気を取り戻した彼は、険しい山の中を八咫烏(やたがらす)に導かれ、苦労の末にナガスネヒコを滅ぼし、こうして幾多の困難に遭いながら東征から6年目で漸く(ようやく)大和の国に到達し安住の地とした。 

畝傍(うねび)の橿原(かしはら)の宮において即位の礼(神武天皇に即位)を挙げ、天皇を中心とした国の基を建てられ(建国)、荒ぶる国々を平定された。 
大和三山の一つ畝傍山の北東麓、玉砂利の参道と素木の大鳥居が立つところに神武天皇御陵があり、その南側に、明治天皇により創建された神武天皇祭神の「橿原神宮」が鎮座する。


神武天皇は、日向の国・高千穂に降臨したニニギノミコトから数えて四代目、天孫族の頭領・アマテラスからは六代目(又は五代目)そして、国生みの神々の祖神とされるイザナギ・イザナミからは七代目に当たるとされる。 

日向の「高千穂」という地名の起こりは、ニニギがこの地に降臨するとき千本の稲穂をつみ、その籾(もみ)をしごいて蒔いたとことから「千穂」というようになり、その上にニニギノミコトの尊さを意味する「高」の字を付けて「高千穂」と呼ぶようになったと言われている。

参考までに、高祖神々の系譜の概略を述べてみよう(参考・日本書紀系)・・、
日本神話に登場する最初の夫婦神とされるイザナギとイザナミがおられた。そして、その子の一人(神)が天照大御神である。


天照神以降の譜系は・・、
天照大御神(アマテラスオオミカミ:伊勢神宮の主祭神、初代皇祖神) ⇒ 天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト:英彦山神宮の主祭神・福岡県) ⇒ 彦火瓊瓊杵尊(ヒコホノニニギノミコト:新田神社、霧島神宮の主祭神、天孫降臨、日向初代、高千穂神社、可愛山陵) ⇒ 彦火火出見尊(ヒコホホデミ:鹿児島神宮の主祭神、山幸彦、日向二代、妃・豊玉姫命・ トヨタマヒメノミコト ・乙姫:長崎・海神神社の主祭神、高屋山陵) ⇒ 日子波瀲武草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト:鵜戸神宮の主祭神、日向三代、妃・玉依姫命・タマヨリヒメノミコト・豊玉姫の妹:玉前神社の主祭神・千葉上総、吾平山陵) ⇒ 神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコノミコト:宮崎神宮、橿原神宮の主祭神・奈良県、玉依姫命の子、神武天皇、皇祖初代天皇・紀元前660年の紀元節)となる。 天照大御神から代代辿って、神武天皇までは六代目に当る


日向・宮崎は、神話と伝説の古里と言われており、天地が作られた天地開闢(テンチカイビャク)から天孫降臨、そして神武遠征まで様々な言い伝えが残り、宮崎の各地に祀られている。 
市内では、国生み神生みの日本最古の神、イザナギとイザナミのご神体を祀る「江田神社」、イザナギノミコトが禊(みそぎ)を行ったとされる阿波岐原のみそぎ池、イザナギノミコトを祀るイザナキの禊にまつわる「小戸神社」、イザナギの禊(みそぎ)の際に綿津見三神(ワタツミ・アマテラスの姉弟、住吉三神)を祀った「住吉神社」、ニニギの妻で海幸彦・山幸彦の母であるオオヤマツミの娘・コノハナサクヤが祀られている「木花神社 (きばな神社)」、山幸彦、豊玉姫のご夫婦神を祀っている青島神社、それにニニギは、高千穂町の高千穂神社、北川町に墓稜とされる可愛山稜に祀られている。
そして、神武天皇の東征前の皇居跡と伝えられる皇宮屋(こぐや・皇宮神社)、初代天皇である神武天皇とその父の鵜葦草葦不合命(ウガヤフキアエズノミコト) と母の玉依姫命(タマヨリヒメ)を祀る「宮崎神宮」などがある。


次回は、「佐土原

  
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2016-12-22(Thu)

平成日本紀行(163)宮崎 「宮崎神宮」






 平成日本紀行(163)宮崎 「宮崎神宮」  ,






参道と神門




http://ichagamiyazaki.com/wp-content/uploads/2aa863ad.jpg
宮崎神宮、拝所とその奥が拝殿




拝殿の「神武天皇」の扁額、





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神武天皇を祀る宮崎神宮・・、

一ッ葉道路は、国道10号の交通渋滞を解消するバイパスとして主に海岸を北上して佐土原に至っている。 別名「くろしおライン」ともいう。 

北部地域には、隣接している「フェニックス・シーガイア・リゾート」のグリーン地帯があり、こちらは世界でも屈指の施設で、自然と環境を備えた世界に誇れるリゾートだと当事者は自認しているようである。 
因みに、シーガイアとは、英語で海を意味する「Sea」と地球を意味する「Gaia」を組み合わせた造語である。


昨夜は、この道路のP・Aで夜を明かした。
車には柔らかな朝日が入り込んでくる、今日もいい天気のようである。 
海岸へ出ると陽光が海面に反射して一寸眩しいくらいである。 陽気のわりに打ち寄せる波は大きく白の飛沫を上げている、やはり日向の海である。 

近くのセブン・イレブンで配送したての朝食と、沸かしたての熱ったかコーヒーで鋭気を注入して、朝日に見送られながら出発である。 
今朝一番は、先ず宮崎市街地の「宮崎神宮」へ向かう。 


JR日豊線のその名も宮崎神宮駅は、神宮を模した木造建築で、赤の銅版屋根と朱に塗られた柱などの神宮との調和と風情を考慮したデザインの駅舎である。 
だが、木造の建物駅舎は長年風雨に晒され痛みも激しく、近年、取り壊しが決まっているらしい。 

目の前に宮崎神宮の銅板張りの大きな鳥居がデーンと建っていて、その奥に鬱蒼とした緑の森が広がっている、神宮の森であろう。

駅前からゆっくり進めると、東神苑という大きな駐車場が現れる。
我が愛車をこちらに止めて、そこから左方向へ玉砂利が敷き詰められた参道を行く。 

両側を宮崎を代表する照葉樹(シイ、カシ、タブノキ等)の森が鬱蒼と広がり、限りなく続いているようである。
境内の広さは広大で、何でも東京ドームの五倍以上もあるという。 
いかにも神苑の森といった感じで、その神聖な空気を味わいながら、暫くすると本殿正面のエリアに到達する。

西神苑の御奉安所というところには古代船・「おきよ丸」と称して、神武東征の神話を基に、西都原古墳群から出土したという“舟形埴輪”をモデルとした和船が展示されている。

秋の10月下旬に行なわれる御神幸行列で、神武天皇役やその姫であるアヒラツヒメ役らが乗船し、祭りの新しい目玉の一つになっているという。

ニの鳥居、三の鳥居から立派な社務所をすぎると、真っ直ぐな参道がいよいよ本殿に達している。 
先ず神門があって、その左手前には「手水所」があり参拝のための手や口を清める、所作は左手、右手の順に洗い、そして水を口に含んで清めるのが作法である。


本殿を模したとされる神門も豪奢な造りであり、左右の門扉には如何にも天皇家の祖神らしく神紋である大きな「菊の御紋」(正確には「菊花・三つ割菊に矢」というらしい)が配されている。 

神門をくぐると、石組みの参道が拝所まで真っ直ぐに延び、石畳みの両側は整然と掃き清められた玉砂利が敷かれている。 
神門も拝所も本殿と同じ「神明造り」といわれる造りで、屋根上には突き出た「千木」(社殿の屋上、破風の先端が延びて交叉した木;一般に先端が水平にきられている場合は女神、先端が垂直に切られている場合は男神とされる)や「鰹木」(神社本殿などの棟木の上に横たえ並べた装飾の木、数は奇数は男神、偶数は女神の社に見られる)が乗っている。 

拝所とは我等がお参りするところで、こちらで、心新たかにして鄭重に参拝を済ませる。 
この拝所には「神武天皇」と書かれた立派な額がかかっており、初代・神武天皇の御社であることが判る。
周囲は菊の御紋を記した、小さな御旗が取り囲んでいて、一層、厳かな雰囲気を醸し出している。

拝所の奥に、荘厳な拝殿が配してある・・?。 
拝殿の左右二つの左側が神饌所(しんせんどころ:お供え物を調理する所)、そして、右側に御料屋(神事を行うための色々な道具類を保管する一種の倉庫)と称している。
そして中央奥に正殿があるが社殿に隠れ、殆ど見ることは出来ない。

因みに、拝所と拝殿は、何れも本殿(正殿)に安置されている御神体を礼拝する場所であり、同じ意味合いを持つようであるが、ここでいう「拝所」は、一般参拝者が正殿に礼拝する所であり、「拝殿」は、正殿に宮司や神職のたちが神饌(神に供える飲食物、稲・米・酒・鳥獣・魚介・蔬菜ソサイ・塩・水など)を調理し、奉げて礼拝するところであり、又、記帳して御祓いを受ける参拝者が拝礼するところと理解する。


各社殿は、霧島神宮や鵜戸神宮の色彩豊かな華やかさとは違って、伊勢神宮に模した古代の神社様式とされる見事な「神明造り」である。 

落ち着いた木目の入った白木造りの建屋に、屋根は銅板葺きで千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)が設けられ、その直線的で簡素な佇まいには、やはり伊勢神宮様式の影響が顕著である。
尚、伊勢神宮・正殿の場合は、他の神明造りとは異なり独自の様式を備えているため、特に「唯一神明造り」とも呼ばれている。



ここで、「社殿」について一言・・、
日本における古代神物(仏ではない・・、)信仰には、神社とか社殿などは元々存在しなかった。 
本来、神は目に見えない存在であり、特定の場所に常住しているわけでもなく、古代の人々は、祭りの度毎に祭祀場を設けて、神聖視された巨岩や樹木に神を迎えて、祭りが行われた。 
神が降臨し、依り代とされる神籬(ひもろぎ:古来、神霊が宿っていると考えた自然物である山・森・老木などの周囲に常磐木を植え巡らし、玉垣で囲んで神聖を保ったところ)という様式は、今でも地鎮祭などの祭場が小規模、簡素化した姿が見られる。

」が人間の住む家の形をした神社(かみやしろ)が建てられ、社殿の内に常住するようになったのは寺院様式の建築の影響が大であるとされる。 

仏教伝来以後に初めて、寺院に真似て神社の社殿が造られるようになったとする説は、史学界では有力とされ、仏教伝来が6世紀頃とされるので、それ以降に神社、神殿が造られ始めたことになる。

だが、神の住居としての独自性を強調するために、仏教寺院建築の様式とは別の、古来からの建築様式を神社の本殿建築に採用したともいう。
それは、弥生時代からの伝統である高床式の倉庫建築であるといわれ、穀倉倉庫を模した建物であるとされている。
それが高じて高床式建物は神聖視され、更に神に近づくため次第に高所化され、出雲大社のような高床の社殿が出来上がったのかもしれない。(出雲大社はこの後、記載します)


社殿造営で、古代の神社様式とされるのは神明造り、大社造り、住吉造り といわれる三つの古社様式である。
春日造り(奈良の春日神社本殿の形式・近畿地方に広く分布)、流造り(賀茂御祖神社・賀茂別雷神社の本殿の形式、全国に広く分布)、八幡造り(宇佐八幡宮本殿の形式)などが採用されるのは奈良・平安時代になってからとされる。


銅板葺きの屋根飾りには「鰹木と千木」が装飾されているが、神社本殿などの棟木の上に横たえて並べた装飾の木を鰹木といい、形は円柱状で鰹節に似ていることからという、勝男木とも書く場合がある。

千木は屋根隅の破風と呼ばれる所に、先端が延びて交叉した木のことで、祭神が男神の社は千木先端を垂直に削り、女神の社は水平に削るとされている。
また鰹木の数は其々、奇数は陽数で男神、偶数は陰数で女神とされていて、何れも、他の神社でもこれに倣っているものが多いという。 

当然、当社宮の祭神は神武天皇なので、拝殿の鰹木は7ヶ(神門は5ヶ)で千木先端は垂直の切込みである。 
因みに、伊勢神宮・御正殿は、祭神が女性の「天照大神」なので鰹木は10ヶ、千木先端は水平に切られている。

千木・鰹木ともに、元々は補強のためのものであったと考えられ、今では装飾として古来の建築方法に倣っている。


次回は、「神武天皇

  
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2016-12-21(Wed)

平成日本紀行(162) 都城 「母智丘の巨石」





 平成日本紀行(162) 都城 「母智丘の巨石」   .






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母智丘は巨石文化の跡・・?

先ず、九州南部の火山について・・、
九州南端の鹿児島から、大分県南部を含む九州中央部まで、これらの地域の地表面から深さ10~70cm付近には、橙黄色のガラス質火山灰が堆積しているという。 

この火山灰は、凡そ約 6,000年前に「鬼界カルデラ」という巨大カルデラ(火山の活動によってできた大きな凹地のこと)が生成された時の大噴火の際に噴出したもので、この火山性土壌を特に「アカホヤ」とも呼ばれている。
この土壌は農業には適さないもので、地元・宮崎県の農家の人たちが、恨みを込めて名付けたともいわれる。


平家物語でも、平家に陰謀を企んだとして俊寛僧正らが流罪にされた島で有名な鬼界ヶ島であるが、現在、これらの島の場所ははっきりしないとされるが、鹿児島県南部の海域である薩南諸島の島のいずれかと考えられている。 

鬼界ヶ島で起きたとてつもない大噴火で、(鬼界カルデラを形成した噴火)上空高く舞い上がった火山灰は日本列島を縦断し、東北地方まで達しているともいう。 
火砕流という 噴火現象は、最近では1991~1995年の雲仙普賢岳噴火が思い出されるが、噴火の規模は、雲仙普賢岳などは対象外で、何でも、富士山一個分が全部吹き飛んだくらいの規模に相当するともいわれる・・?。


カルデラ形成を伴う大規模な噴火は、日本列島では1万年に1度くらい発生しているらしいが、有史時代以降には例がないという。 
人類としては、6000年前もの縄文人が唯一の目撃者で、残念なことに当時の縄文文化はこの時、一旦、ほぼ壊滅状態に陥ったことが推定されるという。 
大規模な噴火は、文明をも滅ぼすほどの大影響が有ったとされている。 

鬼界カルデラは、鹿児島県の南方に位置する竹島や硫黄島などの島々は、カルデラの縁の一部で、その殆どは海中に没しているともいう。 
因みに、鹿児島県下には他に、凡そ2万4、5千年前に鹿児島湾奥に生じた姶良火山(あいらかざん)というのもあり、桜島は姶良カルデラの外輪火山に相当するものともいう。 
九州は今でもそうだが、中央部の阿蘇から南部まで火山王国でもあった。

母智丘に巨石を奉ったとされる縄文人、あるいわ有史以前の人類は、この巨大な火山活動で絶滅の危機に陥ったことは確かだそうで尚、知恵をもって一筋の生命を絶やさなかったのも事実であるとされている。


そして、再び、巨石について・・、
石と人との付き合いは、つめれば人類が発生した当初から有ったと想像されてる。
道具として初め使用したのは「自然石」であっただろうが、後には石を加工して使用するようになり、生活用の備品としても使われた。 
以降、人間は自然と石を崇敬するようになり、ここから巨石文化、文明というのが日本を含め世界中に広がったとされている。
そして、これらは遺跡として現在に残されている。

巨石文明遺跡とは、明かな意志を持って人が築き上げた建築物であり、自然の悪戯で移動や加工された岩ではない。
しかし、巨石文明という言葉が生まれたように、数千年前のある時期に極めて広範囲に渡って巨石建造物が出現したことは事実であり、このような慣習が広い範囲に渡って生まれた背景は、尚、考察すべき価値があるといわれる。 


有名なエジプトのピラミッドのように、古代史の一角に占めるものはともかく、石器から縄文時代において巨石を加工し、運搬し、高位に揚げる技術は超人間的行為とされて、更に、研究推考が残されているという。 

いずれにしても、巨石文明は人為儀礼、太陽崇拝、天文台説などに繋がるともいわれる。 

母智丘神社の主要な巨石は全て「神石」とされ、巨石の前には赤い鳥居が設えてあって、その結界を示している。
ところで、普通に見られる神社などの「鳥居」というのは、最初は石の門であったとの説もある。
石門は結界(俗世間と神域の境目)への出入り口として非常に重要視され、それは普通の石ではなく巨石のカタチであるとされ、それが今の鳥居としての原型が継承されているとも言われる。


母智の丘の巨石は、麓から積み上げた超人間的な造作物か、霧島辺りの大噴火で吹き飛んできて堆積した自然造詣のものかは、尚、創造、研究が待たれるともいう。 

尚、この神社に似たような巨石に縁が深いと言われるのが、隣の山田町に在る「東霧島神社」(つまきりしま)であるという。 
ここの階段は自然石でてきており、「鬼が一夜にして積んだ」という伝説がある。 
神石といわれる別名、「裂磐(さくいわ)」もあり、巨木と巨石の林立する境内は、古代人の祭祀跡や住居跡があったともいわれる。 

東霧島神社、母智丘神社とも天孫降臨の「高千穂の霊峰」が望まれ、尤も、都城の町からも高千穂峰を主峰とする霧島連山が仰げる。 
地元の人は、高千穂峰のことを「おてんじょだけ」といい、「御天上獄」と書いているらしい。 
昔から都城盆地内に住む人達の祖先は、この山を「父なる山」と崇め、こう呼んできたという。


次回、「宮崎神宮

  
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2016-12-20(Tue)

平成日本紀行(157) 宮崎 「天孫降臨の地」




『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/





 平成日本紀行(157) 宮崎 「天孫降臨の地」   .





https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6d/Kirishima_Takachihonomine_2.jpg
高千穂峰 高千穂牧場から望む



https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/28/Takachiho-kyo%28Gorge%29_-_River_-_%E5%B7%9D.jpg/800px-Takachiho-kyo%28Gorge%29_-_River_-_%E5%B7%9D.jpg
宮崎県の高千穂峡





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天孫降臨の地、両・高千穂は譲らない・・!? 、

油津付近の展望の良い休憩地で一服しながら、地元の焼酎、銘柄は何と「天孫降臨」というのが有るのに気が付いた。 
500mlを1瓶、記念に購入したが、記念といっても飲んでしまえばすぐ無くなるのだが。 

天孫降臨」の銘柄の由来は勿論、アマテラスの御孫(天孫)の「ニニギ」御一行様が日向の国の「高千穂」に御降臨されたことに由来している。 



再び、その「天孫降臨」の事であるが・・、
降臨したのは高千穂とあるが、ただ、その高千穂は宮崎県、鹿児島県と両方に在り、両・高千穂の本家争いにまで発展しているともいう。 

先ず、鹿児島は霧島山系の「高千穂峰」であるとの主張している。
その理由は日本書紀に「日向の襲(熊襲・隼人)の高千穂峰・・」と書かれていることに由来し、襲は大隈地方のことであって、更に、降臨された山頂には青銅の「天の逆鉾(さかほこ)」があると記されている。 
現に、大相撲の井筒親方は鹿児島出身で現役時は、これに因んで「逆鉾」(さかほこ)というシコナを付けている。 

これに対して宮崎は「高千穂町」であるとしている。 
ニニギノミコトは稲穂の神様のことであり、稲作農業の象徴とされる。
つまり、降臨したのは火山灰(薩摩地方)が積もるような所ではなく、稲作に適した高千穂町であるとしている。 


宮崎県、鹿児島県との本家争いはさておき、そも、「高千穂」という地名の起こりは、ニニギがこの地に降臨するとき千本の稲穂をつみ、その(もみ)をしごいて蒔いたとことから「千穂」というようになり、その上にニニギノミコトの尊さを意味する「高」の字を付けて「高千穂」と呼ぶようになったと言われている。


高千穂町」は九州山脈のほぼ中央部、宮崎県の最北端に位置し、町の中心部を五ヶ瀬川が西北から南東にかけて貫流し、途中、名勝・天然記念物「高千穂峡」が神秘的に創出している。 

この地は、天孫降臨や天の岩戸開き、などの神話の高千穂町としても知られ、その起源は古く、古代遺跡の発掘や多くの出土品等の遺物により、紀元前4世紀頃から既に集落が作られたという史実もある。  

又、神代の神社も多く在り、 高千穂神社は創建はおよそ1800年前といわれ日向三代の神々と神武天皇の御兄君を祀っている。 

神話を今に伝える「天岩戸神社」もあり、天照大神がお隠れになった天岩屋戸が御神体とされ、近くには岩戸開きの“ご神議”が開かれた「天安河原」もある。 
高天原遙拝所、天孫降臨後に神々がこの丘に集い、天上の高天原を遙拝したと伝えられている。 
くしふる神社や荒立神社といった、神話史跡や古代神々にまつわる社宮や史跡も多い。
しかも、高千穂町の東方の北川町には、日向の海を見下ろす可愛山に、ニニギの墓地とされる「可愛山稜」が鎮座しているのである。


又、宮崎の北方、西都市にはニニギに纏わる(まつわる)、都萬(つま)神社というのが鎮座している。
降臨の後、尊(ニニギ・天の神)と美しい姫・コナハナサクヤ(国津神の大山祗神・オオヤマツミ=地の神の娘)が結ばれる。 

この二神の結婚の儀式は、日本最初の正式な結婚式といわれ、その式と新婚生活の場となったのがこの「都萬神社」と伝えられている。 

日向三代の神話における最初のクライマックスは「天と地の統合」である。 
因みに、媛・コナハナサクヤは、「酒解子神」(さかどきこがみ)という別名を持ち、酒造りの神様としても、この社に祀られている。 

媛が自分の子供を育てるのに自分の乳だけでは足りずに甘酒を作って三つ子の子供たちに与えたといい、銘柄は「甘甜酒(あまのたむざけ)」というのが日本最初の酒と言われる。 
天孫降臨の地は、日本の清酒発祥の地であり、地元の銘柄に「天孫降臨」とあるのは納得である。



西都市は宮崎県中部の市域で、往時は日向国府の所在地であり、その市街地西方に「西都原(サイトバル)古墳」という古墳群もある。 
古墳とは、高く土盛りした古代の墳墓のことで、日本での多くは当時の王や豪族ら有力者の墓とされている。 

宮崎は古代「日向の国」とよばれた。 そして、この地は「神話と伝説のふるさと」ともいわれ、古事記や日本書紀にも多く記され、日向神話をはじめ、数多くの伝説や史跡があふれている。 

西都」はその日向の中心地であり、多くの神話や伝説が伝わっている地でもあるが、実質、「古墳」という形で現代までその史跡が残されているのである。 


日本には時代区分に云う「古墳時代」というのもあり、今からおよそ1700年前の弥生時代が終わった3世紀末~7世紀末頃までの凡そ400年間いい、巨大な墓づくりが行われた時代である。 

異例なのが、弥生時代(中期ごろ)にも墳丘墓(ふんきゅうぼ)と呼ばれる大きな墓がつくられ、各地域ごとに、形もいろいろと独自につくられたらしいが、古墳時代になり、全国的に共通した形と内容を持つ古墳が造られたという。

西都原一帯に色濃く残されている西都原古墳群は、300基もの古墳の存在が確認されていて、
古代から相当な規模の国がこの地にあったと思われている。 
その古墳の大部分はいまだ発掘されないまま、多くの謎を秘めて千数百年もの時を眠り続けているという。
この古墳群の中で最大級の二つの古墳「男狭穂塚(おさほづか)」と「女狭穂塚(めさほづか)」というのが在り、この墳墓は、ニニギとコノハナサクヤの夫婦の墓とも伝えられている。


次回は、再び「桜島

  
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2016-12-19(Mon)

平成日本紀行(157) 宮崎 「神話と古代史」






 平成日本紀行(157) 宮崎 「神話と古代史」   .









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「くだらない」の語源は、「百済のではない」からきていると言われる・・?・、

山彦・海彦の神話
日本神話と日本の古代史とは、かなりの関連性があるのは必定であろう。
例えば、「山幸彦・海幸彦」の神話は、日本神話の天孫民族と隼人族(九州においての土着先住民)との闘争を重ね合わせたものとも考えられ。 
又、童話の浦島太郎との共通点も多く、民族学的にいえば南方渡来系民族の伝承に、この様な話が多いそうである。 


日本人は中国大陸から渡来したモンゴル系の北方民族と、南方の太平洋に浮かぶ島々から渡来した民族が融合した民族であるといわれているが、この神話はまさにそれを象徴しているといわれる。 
即ち、大陸系の民族の象徴が山幸彦であり、南方系の民族の象徴が海幸彦であるという。

又、同様なことは、日本人の祖神とされるイザナキとイザナミにもいわれ、イザナキが大陸系でイザナミは南方系であると、二組の共通するところは海幸彦もイザナミも、早い段階で姿を消してしまうのである。 

すぐれた文明である青銅器・鉄器製造と稲作の技術をもった大陸系の民族がしだいに南方系の民族を従えて、やがては大和朝廷の成立に繋がっていくのである。


他にも「山彦と海彦の物語」は、いろいろな象徴が込められているともいう。
端的なのが弟の「山幸彦」が天孫系の北方渡来系であり、やがて日本を支配してゆく大和朝廷のことである。
一方、兄の「海幸彦」は南部九州の土着民、南方渡来系の隼人族の熊襲であり、朝廷に対して大規模な抵抗を見せる。 

この時、朝廷側から「日本武尊」を九州へ遠征させ、熊襲を征したことでもしられる。
史実では、朝廷から大伴旅人を大将とする軍が派遣され鎮圧されたとある。
その後、隼人族やクマソは中央政権(大和朝廷)に組み込まれてゆくことになる。



一般に言われていることは、日本民族は特に九州地方では、先ず。東南アジア系の南方系民族が渡来して「隼人」を形成したとされ、(縄文人、縄文文化)次に、モンゴル、中国、朝鮮半島の北方民族の移民団が新しい技術を持って渡来し、次第に縄文人と融合し、或いは駆逐して弥生文化を広め、最終的には半島から、百済や任那諸国の多くの遺民が日本へ渡ってくることになる。(白村江の戦い)

因みに、「くだらない」の語源は、「百済ではない」からきていると言われる。

当時、百済のものは、進んだ大陸ブランドとして扱われていたそうで、百済以外のものは価値がないと思われ、「百済ではない」ものは、「くだらない」とされた。


朝鮮半島における「百済」の建国神話には日本神話同様、ふたりの兄弟が登場するという。 
神話上の兄弟、海と山の栄枯盛衰の物語で、日本の神話の「海彦・山彦物語」に共通する。 百済を建国したのは弟のほうで、兄は自殺したとも言われる。 しかし、この時、兄は、百済を南下して朝鮮半島南部に下り、日本までやってきたのではないかとも・・?。 


日本における北方渡来人の元祖は百済系の人々といわれる。 
日本の山幸彦の別名は、古事記には火遠理命(ホオリノミコト)であり、日本書紀においては彦火火出見尊(ホホデミ)となっている。 

その山幸彦の子が神武天皇であり、大和朝廷にもつながることになる。 
これらの神話は古代史の想像の域をでないが、一方、その謎を解く鍵を秘めているとも云われる。


神話とは単なる「お話」ではなく、古代の人の考え方やものの見方を反映したものだという考え方があり、何よりも実際に起こったことを、現代とは異なる「古代人の眼」を通して語ったに相違はない。


ところで日本の神話は、主に大きく分けて「四つの神話群」から成り立っているとされている。
その神話の母体となっているのが「古事記」であり「日本書紀」であるが、両、歴史書は小さい相違はあるが大筋では大体同じであるという。 

その神話体系には四つの神話群があり其々、「国生み神話」、「高天原神話」、「出雲神話」、「日向(ひむか)神話」が主に登場する。 
これら物語の重要なポイントとなる場所は、現在でも色んな形で存在し、語られて、そして、そこに多種多様な神々が登場する。 



我々日本人は信仰の有無にかかわらず、神社に初詣でに出かけたり、建物の新・改築の際には殆どが地鎮祭やお祓いを催す。 
我々、日本人の生活の中には通常は意識しないまでも、神々との接点は現代生活の中でも断たれていない。 

お祓いや御祈りをするとき、これらの古代の神々の何れかを御参りすりことになる。 そして、我々の祖先から受け継いでいる、これら古代の神々に必ず行き当たるのである。
我々日本人には、神話世界の神々が常に付いて回っているのに、今更ながらに思い至るのである。


一方、現実的な冷めた見方もあるようで・・! 、
日本神話である古事記や日本書紀は八世紀頃、朝廷(主に天武天皇)が命じて歴史書を編纂し、文字に残した物といわれる。 

それは、天皇位をめぐる戦乱である「壬申の乱」(672年)以降、即位した天武天皇が自らの正統性を示すため、国史の製作を発足したといわれる。

時の権力者が歴史に名を残すために、自伝書や歴史書などを記し、後に残すということはよくあることで、そこには必ず政治的な意図が含むのは当然である。 

その目的は主に、自らが権力の座を射止めるまでに汚してきた手を洗い流す事でもあり、自らの正当性を主張する事でもある。 
しかし、それは併せて国体を維持確立し、天皇制を堅持することでもあった。

全体を通して編纂に当ったのは、「藤原不比等」(飛鳥時代から奈良時代初期にかけての政治家、天智天皇の寵臣)である。 

不比等は藤原鎌足(飛鳥時代の中枢政治家で藤原氏の始祖)の次男で、天武王朝の基礎を築きあげた張本人であり、古事記・日本書紀の編纂、律令制度の導入、平城京の建設、神道の導入など奈良の大仏建設(聖武天皇)以前の天武王朝の仕事をすべて遂行した人でもあるとされる。

そして、「日本社会」の原型を作ったのは、藤原不比等ともいわれる。


伊勢神宮の祭神・天照大神(アマテラス)は、日本でもっとも貴い神と信じられているが、これは藤原不比等が女帝・持統天皇(天武天皇の妻、皇后)を、そのまま皇祖神に仕立て上げ、祭り上げたものだとも云われる。 

神話の中でアマテラスは子ではなく、孫のニニギ(持統天皇の孫・軽皇子・かるのみこ、後の文武天皇)を地上界に降ろして王にしようとしたとあるが(天孫降臨)、これは、そっくりそのまま持統天皇系統の生涯に当てはまってしまいともいう。

『 春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 
              衣ほすてふ 天の香具山 』 (万葉集・第一巻)

あまりにも有名な持統天皇の一句である。


持統天皇は、天武天皇の遺業を受け継ぎ、中央集権の国家の体制をつくりあげた。 そして、大和朝廷までの「倭・わ」という国名を改めて、「日本」という国号を新たに使い始めたのもこの時期であり、西暦690年、伊勢神宮の第一回の式年遷宮を行ったことでも知られる。


次回は、「高千穂

  
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2016-12-17(Sat)

平成日本紀行(157) 宮崎 「古事記と神代の譜系」(2)


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 平成日本紀行(157) 宮崎 「古事記と神代の譜系」(2)  ,





イザナキ、イザナミからイワレヒコ(神武天皇)までの「神々の譜系」





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ニニギの降臨からカムヤマトイワレビコ(神武天皇)の誕生まで・・! 、

天孫降臨から神武東征まで 、
高天原ではアマテラスの子のアメノオシホミミ(天忍穂耳尊:英彦山神宮・福岡県)に子供が生まれ、その子である「ニニギノミコト」(瓊瓊杵尊:川内市・新田神社、霧島神宮)は、下界を治めるためにサルタヒコ(猿田彦大神:道祖神の祖とも言われる)の先導によって高天原から筑紫(古代九州の総称)の高千穂の峰に天降った。 

この時、アマテラスはニニギに御守の宝物である「三種の神器」(皇位の宝標として歴代の天皇が受け継いできている三つの宝物、すなわち八咫鏡(ヤタノカガミ)、天叢雲剣(アマノムラクモノツルキ゛)、八尺瓊曲玉(ヤサカニノマガタマ)を授けた。 


天降った後ニニギは、オオヤマズミの娘・コノハナノサクヤヒメ(木花之開耶姫:富士山の霊神、浅間神社の祭神))と結婚し、ホデリノミコト(火照命)とホオリノミコト(火遠理命)、つまり海で魚をとるのに長じた「海幸彦」(うみひこ)と、山での獲物の狩りに長けた「山幸彦」(やまひこ:青島神社、鹿児島神宮)を生む。 

成長した山幸彦は兄の仕事をしてみたくなり、海幸彦に頼んで狩りと釣りの道具を交換する。しかし、弟は釣り針を魚に獲られて無くしてしまい、自分の剣を砕いて1000本もの釣り針をつくって返そうとしたが、兄は赦さず、無くした釣り針を返せという。 

困りはてた弟の前にシオヅチノカミ(塩椎神:海神・青島神社)という老人が現れて、海神(ワタツミ)の宮殿へ行って相談する事をアドバイスする。 

いわれるままに亀の背中に乗って海神の宮殿を訪ねた。(浦島太郎伝説、鵜戸神宮の「亀岩」がそれである) 
宮殿についた山幸彦はトヨタマヒメに出会い、親しくなって結婚する。 
妊娠したトヨタマヒメ(豊玉姫:海神の娘・乙姫さん、青島神社)は子供を生むために海からやってくる。

この時、山幸彦は鵜(う)の羽で屋根をふいた産屋をつくった。 
妻は生まれたままの姿になって出産するから絶対に見るなと頼むが、不思議に思った夫はつい覗いて見てしまう。
すると、妻は大きなワニの姿になって陣痛に耐えていた。 
恥ずかしさのあまりトヨタマヒメは生まれたばかりのウガヤフキアエズ(鵜葦草葦不合命:鵜戸神宮)を残したまま、海に帰ってしまう。

しかし、夫や子供への恋しい気持ちからトヨタマヒメは、妹のタマヨリヒメ(玉依毘売命、玉依姫尊)を地上に遣わす。

やがてウガヤフキアエズとタマヨリヒメは結婚し、二人からは四人の子供が生まれ、その末の弟がワカミケヌノミコト(若御毛沼尊・神日本磐余彦火火出見尊:カムヤマトイワレビコホホデミ)といわれる後の神武天皇(橿原神宮・宮崎神宮)で、日本の初代天皇として即位することになる。


即位した神武天皇は 、
日向の高千穂宮にいたカムヤマト(神武天皇)は、大八島(日本国)の政事(まつりごと・政治)を行うのに適した場所を何処か・・?と相談して、その結果、「青山をめぐらす東方の地」(近畿地方)を決定し、そこを目指すことになって長い旅・東征の戦いが始まるのである。

日向の美々津(日向市)の湊を出発したカムヤマトは、軍船で瀬戸内海を進み、河内の白肩津(しらかたのつ)に上陸、そのまま生駒山を越えて大和に入ろうとしたところ、その土地の豪族の激しい抵抗にあって進むことができなかった。 

そのため、まっすぐ進むのをあきらめ、紀伊半島へ迂回して熊野から吉野を経て大和に入り、先ず大和の国の平定に成功する。

この後、カムヤマトは辛酉(しんゆう・干支。エトの一つ、かのととり)の年の正月一日に大和・橿原宮(畝傍・橿原神宮)を興し、この地で即位して初代天皇である「神武天皇」になったというわけである。 
即位の年は紀元前660年とされている。(紀元元年・紀元節) 


浦島太』 幼年唱歌(明治33年)
むかしむかし 浦島は
助けたかめに 連れられて
りゅうぐう城へ 来て見れば
絵にもかけない 美つくしさ

おとひめ様の ごちそうに
たいやひらめの 舞踊り
ただ珍しく 面白く
月日のたつのも 夢のうち


紀元節の歌』 小学唱歌 明治25年 高崎正風
雲にそびゆる 高千穂の 
高根おろしに 草も木も 
なびきふしけん 大御代を 
仰ぐ今日こそ 楽しけれ

空に輝く 日の本の 
万の国に たぐいなき 
国のみはしら たてし世を 
仰ぐ今日こそ 楽しけれ


次回は、私観・「神話と古代史

  
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2016-12-17(Sat)

平成日本紀行(157) 宮崎 「古事記と神代の譜系」(1)

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 平成日本紀行(157) 宮崎 「古事記と神代の譜系」(1)   、




【神々の譜系】 、

http://www.beach.jp/_images/archive/d010TIC8STDLCRA9U2VJSMDIEBLDKOE6RHPRMONC4CVAOQQVAS4AEFU/large





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日本神話における神々の譜系と天孫降臨・・ 、

宮崎の特異な海岸に鎮座する「青島神社」や「鵜戸神宮」を参拝するに及んで、この神宮の主祭神が「天津日高彦火火出見命」(あまつひだかひこほほでみのみこと)や「日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊」(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)という、通常、神社の祭神としては聞きなれない神が祀ってあり、この神が日本の神代時代の神々であることに改めて知ることになる。

元より、日向・宮崎は日本の祖神である神々が降り立ったところであり、所謂、「天孫降臨」の地であることはおぼろげながら知ってはいたが・・?。


ここで「神武天皇」以前の日本の主要な神々、宮崎を中心としたを「日本の神話」に登場する神々を掻い摘んで取りまとめてみた。 

日本神話の大元は、大化の改新以降の奈良期にまとめられた「古事記」(712年頃)や「日本書紀」(720年頃)、それに、各地方の風土記である常陸(ひたち)、播磨(はりま)、出雲(いずも)、豊後(ぶんご)、肥前(びぜん)などの伝承を記した資料などで形づくられている。 

資料によって、例えば「古事記」と「日本書紀」とでは、神名や物語が若干の異りもするが、ここでは「古事記」の物語から日本神話の概略をたどってみた。


先ず、中国の神話において、天地創造・誕生のことを「天地開闢」(てんちかいびゃく)と称して初めて登場してくる。 

それによると、天地の姿形をなす前の全ては、卵の中身のようにドロドロと混沌としていた。その中に主人公となる盤古(創生神)という神が生まれた。
盤古が死ぬと、その死体からは山や平地がうまれ、体の主要部分は太陽に、月に、海に、草木に、川に、風に、雷になったとされている。 

古代人にとって、自分達の世界がどこから生まれたか、そして、自分達はどのようにして生まれてきたのか・・?、このことは大きな問題であった。 


日本の古事記や日本書紀との間では、物語の内容は若干異なるが、最初の部分の世界誕生の頃は、ある意味で共通している物語となっている。
日本でも中国の思想に倣って天地創造は「天地開闢」とし、それは天地に代表される世界が初めて生まれた時のことを示している。 


太古の昔は天と地とは分かれておらず、互いに混ざり合って混沌とした状況にあったとし。
しかし、その混沌としたものの中から、清浄なものは上昇して天となり、重く濁ったものは大地となったという。
そして、その中から、神が生まれるのである。


この頃、日本付近の天上界に「高天原」(たかまがはら)が誕生する。
一般に、地上の人間が住む世界を「豊葦原之中津国」(とよあしはらのなかつくに)といい、地中にあるとされる根の国・黄泉の国(よみのくに)に対し、一般に天上にあると考えられているのが高天原といわれる。 

日本の神々が最初に生まれたのが高天原とされ、先ず、別天津神(ことあまつがみ:三柱の神々)があらわれ、その後に神世七代(七柱の神々)という神々が生まれた。

これらの神は、始めのうちは未だ性別のない神々であったが、その後の三代目辺りから男女の別性のある神々、即ち、男女一対の神たちが生まれ登場することとなる。
これまでの神々の総称を「根源神」と一般に言われる。

これらの神々である根源神の最後に生まれてきたのが、二人の兄妹神である「伊邪那岐・イザナキ」、「伊邪那美・イザナミ」であった。 


イザナキとイザナミが海の水をかき混ぜると「オノゴロジマ」(天界と下界を結ぶ島)ができ、二人はその島におりて結婚し夫婦となって、日本列島である大小八つの島を生む(大八島)ことになる。 

主な国生みが終わると岩石や土、海(オオワタツミ・大綿津見神)、風、木、山(オオヤマツミ・大山津見神)、野、船、穀物などの神々を次々と生んでいった。 
しかし、イザナミは、最後にヒノカグツチノカミ(火之迦具土神:火の神の意味)を生むときに死んでしまう。 

イザナキは、イザナミが死の際に行ったとされる地底の黄泉国(よみのくに:死者の国)へ訪ねていくが、しかし、イザナミの身体は既に腐敗し、すでにウジにたかられていた。 
イザナミのそんな死体を見てしまったことで、イザナきは怖くなって逃げ帰る。 

生還したイザナキは、身を清めるための「」(みそぎ:身に罪または穢れのある時や重大な神事などに従う前に、川や海で身を洗い清めること)をすると、次々と神々が生まれ、最後に左目をあらうと、高天原をおさめる「アマテラスオオミカミ」(天照大神・伊勢神宮)、右目をあらうと夜の国をおさめる「ツキヨミノミコト」(月読命)、鼻をあらうと海原をおさめる「スサノオノミコト」(須佐之男尊・素戔嗚尊)が生まれた。 


これら四兄弟神の内の「スサノオ」はやんちゃで、悪戯好きで、悪行が重なったため、怒ったアマテラスは悲しみのため天上の岩窟「天の岩屋」へ身を隠してしまった。
すると、天上も下界も真っ暗闇になり悪神が横行した。 

八百万(やおよろず)の神々は相談し、天の岩屋戸の前でお祭り騒ぎをはじめ、代表して「アメノウズメノミコト」 (天宇受売命)が素っ裸で踊りの舞を見せると、何事かとアマテラスは岩屋は開き、天地に再び光明が訪れる。

そして、悪戯者のスサノオは高天原を追放され、出雲国(現、島根県)に流される。 
ここで、スサノオによって出雲の国造りが行はれ、そのかたわら「ヤマタノオロチ」(八俣の大蛇)などの伝説に繋がる。

次にスサノオの子、又は孫とされる「オオクニヌシノミコト」(大国主命・出雲大社)は、スサノオから授かった太刀と弓をもって出雲に戻り、悪い兄弟たちを追い払い、スクナビコナノミコト(少彦名命)やオオモノヌシノカミ(大物主神:オオクニヌシ本神説とされる)らの力を得て国造りに勤しみ栄えさせていくのである。(出雲地方:出雲風土記にて後述予定)


次回は、「天孫降臨

  
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八ヶ岳(1966年)・・
南ア・北岳(1969年)・・
北ア・槍-穂高(1968年)・・
谷川岳(1967年)・・
丹沢山(1969年)・・
西丹沢・大室山(1969年)・・
八ヶ岳越年登山(1969年)・・
西丹沢・檜洞丸(1970年)・・
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《山のエッセイ》・・・
「上高地雑感」・・
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