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2017-03-06(Mon)

平成日本紀行(176) 萩 「吉田松陰」(6) 






 平成日本紀行(176) 萩 「吉田松陰」(6)  .




 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/83/Yoshida_Shoin2.jpg/250px-Yoshida_Shoin2.jpg
吉田松陰像(山口県文書館蔵)






旅の記録;「日本一周」へリンクします

吉田松陰の基本思想と松下村塾の関わり・・、

安政6年(1859年)、松蔭は老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処された。 享年30(満29歳没)。

吉田松陰の幼名は杉虎之助。 吉田家に養子入りの後、吉田寅次郎。 松陰の号は寛政の三奇人の一人で尊皇家の高山彦九郎(上州新田郡;江戸時代後期の尊皇思想家)のおくり名にちなんでつけられた。 

号の松陰の他、二十一回猛士とも称した。 
「二十一回」については、名字の「杉」の字を「十」「八」「三」に分解し、これらを合計した数字が「二十一」となること、および、「吉田」の「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解でき、これらを組み合わせると「二十一回」となることにより付けられている。



吉田松陰は、幕末に生きた非常に情熱的な人で、30年という短い生涯ながらも、自身の情熱で多くの人たちの心を揺り動かし影響を与えた。
その松蔭の教えの中に、基本思想、「尊皇・・」の至誠が非常に強かったのは言うでもない。

江戸期幕末、明治維新の先駆けになったのがの尊皇の志士達であり、彼等の筆頭にいたのが吉田松陰であった。 
松蔭の実家である杉家は、仏教を捨てて「神道」を信仰していた。 
合わせて長州藩・毛利家の始祖は、(相模の国の厚木の庄の出身で、おおもとは都の大江広元である)古代期より濃い天皇家の血が混じっているとされ(平城天皇以来・・?、)、歴代藩主は勤皇に励んできていた。


松蔭は武士(長州藩士)である。
従って、藩主や幕府に対する忠誠心は当然であったし。
だが、それ以上に皇室への忠誠心があった。 

松蔭や杉家は歴代毛利家に倣ったのは当然であり、「尊皇」は松蔭にとって、既に皮膚に染み付いているのである。 
自書の中に、「天下は天朝(朝廷)の天下にして即ち、天下の天下なり、幕府の私有にあらず」、として「神々が大八洲(日本列島)や山川草木、人民と天下の主なる皇祖・天照大神(アマテラスオオミカミ)をお生みになった。それ以来天皇が国土、自然、人民を保護してきたのである」としている。 

天皇と国民の絆(きずな)の「真の性質」は、(1)に「神話的血縁関係」、(2)に「道徳的紐帯(ちゅうたい)」それに(3)、「法的義務」としている。 
維新の推進役となった彼等尊皇の志士達には、松蔭の影響も有り、このような基本思想が有ったのである。 
やがてその中から明治維新で、尊王の志士達が活躍する人物が多く輩出するのである。


因みに、松蔭をめぐる主な人たちは・・、
松下村塾の弟子】 高杉晋作、久坂玄瑞(くさか げんずい、妻は吉田松陰の妹、尊皇攘夷派の中心人物)、吉田稔麿(よしだ としまろ、長州藩の活動家、久坂玄瑞、高杉晋作、そしてこの吉田稔麿を称して松陰門下の三秀という)入江杉蔵、金子重之助等など(以上、維新前活躍)・・、伊藤博文、品川弥二郎、野村和作、前原一誠等など(以上、維新後活躍)。

明倫館の弟子】 桂小五郎(木戸 孝允:きど たかよし、長州閥の巨頭、尊王攘夷派の中心人物で、薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに維新の三傑といわれる)、毛利敬親(もうりたかちか・長州藩・第14代藩主)、益田弾正(藩家老)。

松蔭の師】 玉木文之進(長州藩士・教育者・山鹿流の兵学者、松下村塾の創立者、吉田松陰の叔父に当たる)、佐久間象山(しょうざん・兵学者・思想家、松代三山の一人)、村田清風(後述)、


松蔭は、愛弟子の高杉晋作に・・、
『 人間というものは、生死を度外視して、何かを成し遂げる心構えこそ大切なのだ 』
と説いている。


「松下村塾」の南に位置して「伊藤博文旧宅」が建つ、木造茅葺き平屋建の小さなものである。 彼は7歳の時に、既に松下村塾に入門していた。
松陰は伊藤を・・
『 利助(博文)亦(又、また)進む、中々周旋家(仲介・口入れを業とする者、きもいり)になりそうな 』
と評していた。

彼・伊藤博文は尊皇攘夷の志士として活躍し、英国に留学して西洋列強の実力を体感し、開国・富国強兵論に転じ、武力倒幕運動に積極的に参加する。 
明治新政府においては、明治18年(1885)12月に初代内閣総理大臣の地位につき、大日本帝国憲法制定(明治憲法)に際し主導的役割を果たした。 
明治42年10月26日、極東問題で赴いた満州ハルビン駅にて暗殺された。 隣に東京より移築した「伊藤博文別邸」がある。


山裾北側に「護国山・東光寺」がある。
全国屈指の黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院で、黄檗宗に帰依した三代藩主毛利吉就による創建で総門、三門、鐘楼、大雄宝殿はいずれも国の重要文化財に指定されており、名刹の面影を残している。

黄檗宗は、日本における仏教の宗派であり、臨済宗、曹洞宗に次ぐ禅宗の一つである。 
現在、臨済宗、曹洞宗が日本風に姿を変えた現在でも、黄檗宗は中国・明朝風様式を伝えている。
有名なのが「隠元」の開いた、総本山・京都府宇治市の黄檗山・萬福寺(おうばくさん まんぷくじ)である。
この寺院の圧巻は藩士が寄進した500余基の石灯籠が立ち並び、このほか殉難十一烈士墓、維新志士慰霊墓八基などが並ぶ。




以上、吉田松陰に関する著述は、過日の産経新聞連載・関 厚夫氏著筆の「吉田松陰・ひとすじの蛍火」を参照にしてます。 

吉田松陰に関する「関 厚夫」氏の著書

吉田松陰・ひとすじの蛍火 人とことば
http://www.bk1.jp/product/02912250 

http://www.bunshun.co.jp/book_db/6/60/58/9784166605859.shtml 

吉田松陰 魂をゆさぶる言葉
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4569704409.html 


次回は、「長州・毛利氏」

  
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2017-03-06(Mon)

平成日本紀行(176) 萩 「吉田松陰」(5) 





 平成日本紀行(176) 萩 「吉田松陰」(5)  ,





 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/83/Yoshida_Shoin2.jpg/250px-Yoshida_Shoin2.jpg
吉田松陰像(山口県文書館蔵)







旅の記録;「日本一周」へリンクします

『 身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 
               留め置かまし 大和魂
 』  松蔭

松蔭は、萩の獄舎で囚われの身となっているが・・、
野山獄」は現在の北古萩町、萩城址とJR山陰線の東萩駅を結ぶ主要道路の中間地・本行寺付近に在って、今も「獄舎跡」として記念碑などとともに残されている。 

野山獄の向い側には、「岩倉獄」という獄舎もあって同様に獄舎跡があり、隣同士向かい合った二つの獄舎址を目にすることが出来るという。

野山獄・岩倉獄の発祥のいきさつは、江戸・天保年間初期、岩倉という藩士が隣家の藩士である野山宅に酔って押し入り、家族を刀で殺傷する事件が起こった。 
この事件で藩士・岩倉は死罪、一方、切り込まれた藩士・野山家も取潰しになってしまい、それ以降この両家の屋敷は萩藩の獄舎になったという。 
野山獄は上牢と呼ばれ、藩士、武士の身分の者が入獄する、一方、岩倉獄は下牢と呼ばれ、庶民が入獄するものとされていた。 


さて、松蔭とともに密航を計画し、行動をともにした「金子重輔」のことであるが、彼はこの岩倉獄で結核のため病死している、松蔭より1つ年下の享年25歳であった。

金子は松蔭と違って足軽の出であった。 そのため江戸伝馬町の獄でも、“ごろつき”などを主として収容する下級階層の牢獄にいた。 
環境はきわめて劣悪で、屈強な金子もさすがにこの環境には勝てず次第に心身が蝕まれ、労咳(結核)におちいった。 
しかも、江戸から萩への護送は冬の最中に行はれ、寒風の吹きすさぶ中、更に体調は悪化していった。 

松蔭は盛んに金子に気配りをしたが、獄舎の違いもあって充分にその意思は伝わらず、金子は岩倉獄の獄舎で静かに息を引きとったという。
金子は松蔭に、「もう私は永くなく、日本の行く末を見ることは適わんでしょう。だが、先生と渡海を決めた時から命は捨てておりました。今生きているのは“おまけ”のようなものです。後は一目、父母の顔さえ見れれば、全て良しとします。」 

松蔭は間際の金子に、釈迦の前世、現世、来世の教えを説いた。
現世は一瞬である、前世は一瞬の前の長い過去であり、来世は一瞬の後の長い未来である。 現世の永さなど、どれほどのものか・・!、この道理を理解せず、短い苦に耐えかねて永遠の喜びを失う者のいかに多いことか。 君は幸せなり・・!!」、これが師弟の最後の便りとなった。

獄吏のはからいで、金子は父母と「末期の再会」を果たす事ができ、体力の消耗は激しかったが意識は明瞭であったという。


幕末の安政年間、この時期、井伊直弼が大老に就任、開国思想を持つ大老は攘夷派に対して弾圧を始める。 
所謂、「安政の大獄」が進行してゆくのである。 

大老の懐刀・長野主膳は、松蔭の動きをつぶさに観察している。 
松陰は5年前、渡海(未遂)という、死罪に値する国禁違反をおかしたが、「実家で蟄居」という寛刑ですんでいる。 にも拘わらず過激な尊皇思想を説き、御政道に異見をさしはさんでいるとして「吉田松陰は悪謀の働き抜群」と直弼に報告している。 

そして、井伊政権は、「吉田松陰、更に御吟味の筋これあり」として、遂に吉田松陰の江戸召喚を決定した。


野山獄にいる松陰に、「江戸移送」の報を最初にもたらしたのは兄・杉梅太郎だった。 
この時、松蔭は「拙者このたび、江戸に移送されるとのことで、すでに覚悟を決めております。たとえ一命を捨てても国家のためになるのならば本望というもの。ただ、父上と母上には不孝の限りですが、」と、したため併せて、死を予知していた松蔭は臆することなく遺書を書き始め、それは翌日の暮れにまでおよんだという。


冒頭に・・、

『 身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 
              留め置かまし 大和魂
 』

の歌を置き、全編を「留魂録」と命名した。


安政6(1859)年5月14日、松陰を乗せた篭は萩・松本村の杉家を出立した。
萩城から南へ約5キロ、山道に1本の大きな松の木が立っていた。 

他国に向かう旅人はここで見えなくなる萩の景色と名残を惜しみ、帰国する人は長い旅の終わりを知る。 
いつしかこの木は「涙松」と呼ばれるようになったという。 

松陰を乗せた篭がその前を通りすぎようとしたとき、松陰は護送役に声をかけた。「これが萩の見納めじゃ。ちょっと外を見せてはくれまいか」 罪人用の駕籠であるが、護送官は承知して戸を開けた。 
「忝(かたじけ)ない、これで大安心」、そして萩の城下町が遠くなっていった。


6月25日、長州藩江戸藩邸に到着している。 直後から尋問がはじまる。
尋問中松蔭は、「私には死罪に値する罪が二つあります。死罪の一つは、藩主・毛利敬親に勤皇策を説こうとしたこと、もう一つは同志とともに京都に上り、朝廷を惑乱していたご老中・間部詮勝(あきかつ)を詰(なじ)ろうとしたこと」、

「しめた!」と尋問者たちは思惑を抱きながら、快哉(かいさい・痛快なこと)を心中で叫んだ。 
そして、「そちには国を思う真心がある。しかし、大官であるご老中を斬ろうとした。大胆にもほどがある、覚悟しろ・・、吟味中、伝馬町獄入りを申し付ける・・!」。

暫くして遂に松蔭に「」が下った。 
不届きにつき打首申し付ける・・!」。

安政6(1859)年10月27日、この日の正午ごろ吉田松陰は江戸・伝馬町獄の刑場で打ち首に処せられた。  
享年・若干満29歳であった。



松陰刑死」の報を聞いたとき高杉晋作は号泣し、「仇討ち」を誓った。 
その後、師・松陰と同じように「」(たけだけしさ)を発し続けてきた。

元治元年(1864年)、松陰が火をつけた尊皇攘夷の炎は、ここで最初の頂点に達しようとしていた。 
藩は、いくつかの小変を経て「幕府と対決してでも京都に上り、尊皇攘夷を実現すべし」という「暴発論」が長州藩の大勢をしめるようになっていった。 

京では新撰組が三条の池田屋を急襲し、「武装蜂起を決行しようとした」として斬り殺された尊皇派志士の中に、松陰のまな弟子、吉田稔麿や親友だった宮部鼎蔵がいた。 

この事件が引き金となり、長州藩は暴発する。 
翌7月、長州軍は三方から京に攻め上がったが、幕府、薩摩、会津の連合軍に撃退される。
所謂、「蛤御門の変」である。

この時から彼らは一つになり、特に晋作は、身分制度を打破した「奇兵隊」を創生し、旧体制に挑んだ。 
そしてその後、その推進力によって吉田松陰が夢見た新しい政治体制が確立され、「新しい日本」が誕生するのである。  

松陰の一生は、豊作だった


次回、「松蔭と松下村塾

  
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2017-03-06(Mon)

平成日本紀行(176) 萩 「吉田松陰」(4)






 平成日本紀行(176) 萩 「吉田松陰」(4)  .






 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/83/Yoshida_Shoin2.jpg/250px-Yoshida_Shoin2.jpg
吉田松陰像(山口県文書館蔵)





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「雲外の鶴 籠の中の鶏」・・、

松蔭は、下田沖でペリーの艦隊に潜入し、密航を図ったがペリーに良心的に拒否され、身柄を拘束された。 
その後、下田獄から江戸・伝馬町の獄舎へ移され、更に、萩へ護送されて暫し父・杉百合乃助の元で謹慎処分になっていた。 
萩では、藩命により武士専用の「野山獄」に収容された。


この時、綴られた松蔭の詩に・・、

逸気神州を隘(せま)しとし
乃ち五州を窮(きわ)めんと欲す
憐れむべき蹉跌の後
一室に孤囚となる
 

日本は狭い
世界を知ってやろうと勇んでみたが
哀れ失敗に終わり
今は独房にいる
(現代語訳)


『 雲外の鶴 籠の中の鶏 』 
(大海を夢見た松蔭は、今は野山獄の一個になってしまった)



1859年(安政6年)、吉田松陰は萩より江戸に送還され、処刑されている。
この間、萩で謹慎、蟄居中の頃、捕われれの身でありながら半分は自由の身であった。 
松蔭は近隣の青少年の教育をはじめている。 
これが世に言う松蔭の「松下村塾」であった。

松下村塾(しょうかそんじゅく)は、松陰の叔父である玉木文之進が1842年(天保13年)に設立し、松陰も学んでいる。 
後に、松陰は1855年(安政2年)に、実家である杉家に謹慎、蟄居するにおよんで、杉家の母屋を増築して塾を主宰した。 
藩の許可を得るが、松陰が「安政の大獄」で粛清された為に、僅か3年で廃止におい込まれた。


一方、藩校・明倫館でも塾頭を務めた松陰は、武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れている。 

松蔭の講義については、門人によると・・,

『先生は、教え方はあまり流暢ではなかった。 正座し、膝の上に脇差を置いて常に両手で両端を押さえて、肩を張って話をしていた。 講義をされる際、忠臣や徳人が自分の身を犠牲にして義に殉ずるくだりになると、先生は大粒の涙を浮かべ、声を震わし、時にはその熱い涙が本の上に点々とこぼれていった。 このため講義を聴いている門弟たちは皆感動し、同じように涙を流したもんだ。 忠臣には涙をし、逆臣には目をカッと見開いて声を張り上げ、怒りをあらわにした』 と言う。
誠に生き、義に殉じた松蔭ならではの人柄であり感情なのである。


村塾は短期間しか存続しなかったが、尊皇攘夷を掲げて京都で活動した者や、明治維新で新政府に関わる人間を多く輩出した。 
著名な門下生には久坂玄瑞(くさかげんずい)、高杉晋作、吉田稔麿(としまろ)、入江杉蔵、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、小野述信らがいる。

その内、久坂玄瑞(松蔭の義弟、蛤御門の変で討ち死に、享年25歳)、高杉晋作(奇兵隊を創設、第二次長征で幕府を討ち薩長同盟の立役者、肺結核のため死去、享年27歳)、吉田稔麿(奇兵隊員、新撰組・池田屋事件で討ち死、享年24歳)、入江杉蔵(奇兵隊の参謀、蛤御門の変で討ち死に、享年28歳)を塾生門人の「四天王」と呼ばれている。 
門人達は「高杉は恐ろしかった、稔麿は賢かった、久坂には就いてゆきたかった」と証言している。
彼等は幕末の変で眩いばかりの輝きを見せながら、維新を見ることなく夭折してしまったが、
松下村塾は、明治維新の後に再び復活し、明治25年頃まで存続したという。(国指定史跡)


雲外の鶴 籠の中の鶏』・・、の松蔭は獄中にいる。

罪状から察すると終身刑でもおかしくなく、普通なら落胆するであろうし、絶望を感じてもおかしくはない。 
ところが、松蔭という男の不思議さは、この牢獄という別世界を興味津々に眺めるだけでなく、同囚や看守を巻き込んで学問、教育の場に変えてゆくのである。 
獄舎問答」、「江戸獄記」などの著作は、野山獄、伝馬町獄の体験が基本になっている。

松蔭は、いかな同囚であろうととも、へりくだり、年長者を敬いながら、猛烈な勢いで読書に励み、その数ヶ月に50冊に及んだとも言い、月間の読書数が30冊に止まった時など、「この月、甚だ無精なり」と己を蔑(さげす)んでいる。 

松蔭は、「獄中では学問を通じてお互い切磋琢磨し、勉強会に参加しなかったのは10人の内2~3人である。僕がここで天寿をまっとうすることになるならば、十数年後には獄中から傑物の一人や二人は必ずでるであろう」とも洩らしている。

現に、松蔭よりはるか年長者の富永有隣(とみなが ゆうりん;幕末の長州藩士・儒学者)は儒学と書に秀でて、幼少より松蔭に匹敵するほど神童の誉れ高き人物であった。 
だが、「虚言癖があり、酒色におぼれやすく、群小を憎む尊大さ」があり、その性癖で周囲からは弾かれた存在でもあった。 
彼は獄中、松蔭と会って改心し、後に松下村塾の講師に招かれている。 
松蔭曰く「天下に人材が居ないわけではない、登用するに足る人物がいないだけである・・」


次回、「松蔭・・、散る

  
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