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2017-04-29(Sat)

平成日本紀行(180) 江津 「江の川」 




平成日本紀行(180) 江津 「江の川」  、




 http://www.geocities.jp/hitosht/02sanindo9/23gohtsu02.jpg
江の川河口と江津港(日本製紙の煙突)



江の川は、中国地方最大の川で、江川(ごうがわ)とも呼ばれる・・、

石見地方の浜田には高速道路が到達している。
瀬戸内・山陽道が大きく内陸へ入り込んでるあたり、広島の北に位置する千代田JCTから「浜田自動車道」が来ていて、更に、山陰道の江津まで延びているようである。 

案内板にしたがって浜田ICから乗ってみた。
まだ出来たてらしく真新しい道路は、ピカピカと黒光りしていて快適であったが、一っ走りで江津へ着いてしまった。 
左手に巨大な工場群が見えている、日本製紙とあった。



江津の主役は「江の川」であろう。 
別名を「中国太郎」ともいい、広島県域では可愛川(えのかわ)とも呼ばれているという。

江津、江の川と書いて“えつ又はえず”、“えのかわ”と読みがちであるが、実際は「ごうつ、ごうのかわ」と読み、地元では「ごうがわ」とも呼ばれているようである。 

高校野球の名門、江の川高校野球部のユニフォームの胸の文字は「GOGAWA」である。  
小生も「江の川」の野球チームが始めて出場した頃、読み方で妙に戸惑った覚えがある。 
いずれにしても、「江」を“こう”でなく“ごう”と読ませることに昔日を感じがするのである。


名のごとく江津は「江の川の港」を意味する地名で、既に、戦国時代以前には大陸との交易が行われ、中国の歴史書にも江津という地名が記されているという。 

河口の西側を占める中心部の江津町(江津本町)は、古くから江の川の舟運と日本海の海運の要所として栄えた。 
中国山地の三次(みよし)をはじめとする上流部の産物の積み出し、又、塩など上流部で必要とされる物資の搬入、併せて北前船の寄港地でもあって、江の川の舟運、海運業が盛んになり繁栄した。

現在も、この川岸から町中に向けて多くの廻船問屋の蔵屋敷が軒を並べ、石州赤瓦の光り輝く「天領の町」であった名残が見て取れる。 
この江津本町の一角を「甍街道」とも呼び、天領らしい風格を残している。


江津の駅から江の川に沿って「JR三江線」(こちらはサンコウセンと読みます)が走っている。 
江津の駅から中国山地を曲りくねって広島の三次(みよし)へ達していて、地図上で見ても、よくもまあと思うほど河川と鉄路がピッタリと寄り沿っているのである。 

JR三江線は、昭和50年8月に開通した比較的新しい路線である。 
陰陽連絡を目的として建設し開通したが、現在では、いつ廃線になってもおかしくないような状況にまで追い詰められているともいう。
しかも、JR西日本はローカル線には結構シビアに対応しているらしいが、実際には、今の所は三江線が廃止になるなどの具体的な動きは出ていないともいう。

三江線を実際に運転していた人は、『 三江線は、山間を走っているので、イノシシや鹿などの野生動物が線路内に入ることがよくあります。 以前、イノシシを四頭ひいてしまったことがあります。しかも、それは、三江線の最高速度(時速85キロ)で走っている時だったので、かなりの衝撃がありました。それで、保線区に問い合わせて処理してもらうように頼んで来てもらったところ、イノシシはどこかへ行ってしまったようで、イノシシの生命力には驚きました。 三江線に乗れば野生動物にお目にかかれるかもしれません 』・・と、PRも兼ねて話していた。


三江線は、人々の輸送もさる事ながら、かっての江の川の代役を果たし、山陰、山陽の物資流通の基幹線としての役目も果たしているのは確かである。 
江の川の河口には、日本国内最大規模の巨大製紙会社、「日本製紙」があった。


次の温泉津から大田までは、「世界遺産・石見銀山遺跡」という内容で記載します。 ご期待下さい。


次回は、「世界遺産・石見銀山遺跡

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2017-04-22(Sat)

平成日本紀行(179) 浜田 「石州瓦」





  
「日本の世界遺産の旅の記録」へリンクします



 平成日本紀行(179) 浜田 「石州瓦」   .



http://www.beach.jp/_images/archive/d0102OVLH9NJRD0F64SDB783OB3C2GQOUCMAN8TB6LIVDC6L4MJ26QK/large
浜田の石州瓦屋根が並ぶ町並み風景



石州瓦は、冬の風雪に耐えながら、この地方独特の風情と景観を醸し出している・・、

特に、島根県に入って目に入ったものは、海の青、山の緑に相まって、人家の屋根の色が赤茶色が主体となって独特のコントラストを描き、風情をなしている。 
この色鮮やかな瓦は、大阪の瓦職人が伝えたという「石州瓦」である。


日本に瓦が誕生したのは、仏教とともに百済国より伝来したのに始まるといわれ、奈良・飛鳥寺建設の時、日本初の瓦葺き屋根の建物が誕生したという。 

山陰地方では石見の国に因んで特に「石州瓦」といい、飛鳥時代の石見の国・国分寺(現、浜田市国分町、金蔵寺)の建立に始まり、江戸時代初期、浜田城築城や城下町建設に造られたのが基となったと言われる。 
石州瓦は独特の「赤瓦」として注目を浴び、山陰はおろか北前船によって北陸から北海道にまで運ばれたという。


粘土瓦の三大産地として三州瓦、石州瓦、淡路瓦がある。
三州瓦は、愛知県三河地方で生産されている瓦で、こちらの生産量は日本一である。 

石州瓦は島根県中西部、石見地方で生産されている瓦で、高い温度で焼き上げているため、硬くて耐寒性に優れた瓦だという。 
次に、淡路瓦は、兵庫県の淡路島で生産されている瓦で、いぶし瓦の生産量ではトップであるという。 

石州瓦と他産地の瓦との大きな違いは、原料となる粘土にあるといい、石州の粘土は鉄分の少ない粘土質(耐火性粘土・白土)のため、高温(1200度)で焼く事ができ、そのため焼き締まって硬く、水を吸いにくく、寒さにも強い瓦ができるという。 
特に、海岸付近に多い塩害にも強く、風化しにくいと。 


山陰地方では赤瓦の町並みが連なり、冬の風雪に耐えながら、この地方独特の風情と景観を醸し出しているのである。

2005年10月、浜田市、旭町、金城町、弥栄村と合併して新市制による浜田市が誕生している。


次回は、「江津、江の川


2017-04-21(Fri)

平成日本紀行(179) 浜田 「会津屋八右衛門」




平成日本紀行(179) 浜田 「会津屋八右衛門」 ,





https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcQ3-x-3fJ3at6z_Df4is8PW3qT5aC4pRohBDOjKtx9500wV-jIV
道の駅・「夕日パーク浜田」から望む浜田港





江戸期、商人・会津屋の密貿易で浜田藩は窮乏から脱したという。 即ち、会津屋は藩の恩人であった。 だが、幕府の罪人でもあった。?、

山間の三隅町から再び海岸へ出た所で「夕日パーク三隅」というのが在り、次に「夕日パーク浜田」という道の駅が在って、この地で小服する。 

気が付くと、先ほど展望休憩したところは“サンシャイン”と言っていたが、こちらは、“夕日・パーク”と和洋折衷の個名で、何れも下手な英名を名乗ったり、英名と国語(日本語)がチャンポンになったりで、忙(心が亡ぶ=忙)しい国である。


夕日パーク浜田」は浜田港を見渡せる高台にあり、港周辺の展望が抜群である。
港を往来する巨大船舶、小漁船と相まって、島へ渡る近代的な大橋が一つの風景となって見渡せる。 
橋は「マリン大橋」といい、島は「瀬戸ヶ島」といい。すぐ左にも同様の島々が有って美観を添えてる。

ただ、この巨大な架橋は国際貿易・水産都市浜田のシンボルとして、総工費約70億円を費けての竣工したものらしいが、一般地元の人の見る目は冷めていて、その意義や有益性については疑問視もあるという。 

浜田港は、島根県唯一の国際貿易港として今は三万トンクラスの船舶が利用可能となっているらしいが、将来は五万トンクラスの大型船舶が利用できる港として整備中とのこと。
平成13年には浜田港と韓国の釜山港を結ぶ国際コンテナ航路が週1便開設されていて、更に浜田港は、北東アジア地域の交流促進や県西部の活性化が期待されていという。


石見地方の中心都市・浜田が、本格的に城郭と城下町、そして湊町が築かれたのは江戸時代初期のことである。 
築城主は元和5年(1619)、伊勢・松坂から転封されてきた古田重治(ふるたしげはる:羽柴秀吉の家臣だった古田重則の三男)だった。 
浜田藩・5万5千石の本拠地として浜田城を整備し、この時、築城ならびに城下町整備のために重治が大坂から連れてきた瓦職人がいて、それらを伝えた技術が後の石州瓦発展の基礎になったそうである。

その後、浜田藩は古田家以降、五家十八代続き、長州(山口県)の毛利氏に対する最前線の抑えとしての役割を果たしてきた。

しかし、江戸末期の慶応2年(1866)、第2次長州征伐の際には山陰方面の幕府軍の拠点となったため村田蔵六(後の大村益次郎)率いる長州軍の猛攻を受けて落城する。 
藩主の松平武聡は城に火を放って鳥取へ逃亡し、250年近くに及んだ浜田藩の歴史は幕を閉じている。


江戸期における浜田港は、北前船の寄港による物資の集散地として栄えたが、一方では、密貿易も行っていて浜田藩は更に潤ったとされている。

江戸時代は鎖国時代であって、海外との貿易が許可されているのは幕府直轄の長崎港だけで、鎖国を破り海外との貿易を行うことは幕府への反逆行為として大罪であった。 
しかしながら、鎖国の本当の理由は、幕府が海外貿易の利益を独占するために行ったという説もあったようである。 
実のところ幕藩時代は、どの藩も財政が窮乏しており、江戸後期には内密で薩摩藩をはじめ、危険を冒してでもその密貿易に手を付けた藩や人物は結構いたようである。

浜田港は北前船の交易も盛んであったが、当節の浜田藩の財政難を見かねた藩の商人「会津屋八右衛門」は密かに朝鮮のウルルン島(当時は竹島)に船を出し交易を行い、数年で何十万両もの利益を上げ、それによって浜田藩は窮乏から脱したとのことであった。

しかし、それも幕府の隠密ともされた「間宮林蔵」(隠密説は・・・?)に摘発され、発覚して天保7年(1836年)に八右衛門は死罪となる。 又、責任者でもある藩の家老や年寄などの重職も切腹、藩主の松平家も福島に国替えとなっている。 
浜田藩庶民の安定した暮らしの中には、このような犠牲も有ったのである。


因みに、間宮林蔵は江戸後期の探検家で、伊能忠敬に測量術を学び、幕命によって北方、北樺太を探検、後の間宮海峡を発見し、地図上でもその名前を残していることは周知である。 

その林蔵は、幕府の隠密でもあったとされる。 
晩年には勘定奉行・遠山景晋(とおやまかげみち・北町奉行・遠山金四郎の父親)の部下になり、幕府の隠密として全国各地を調査する活動を行う。 

普通に見ると、探検家が隠密に転身したような見方もあるが、そもそも樺太探検自体が対ロシア・対清国の隠密行動であり、諜報活動でもあった。 

忠敬は石州・浜田藩の密貿易の実態を掴み、大坂町奉行に報告し検挙に至らしめている。 
彼は隠密らしく変装の名人であり、アイヌ民や乞食など様々な変装をこなしていたともいう。 
浜田藩の密貿易調査の際も、商人に変装して回船問屋・会津屋へ潜入に成功している。 
後に間宮は、「乞食に変装した時は、(着衣がボロボロなので)預かった資金を懐中に隠すのに苦労した」と述懐していたという。


浜田港の東方、一丘越えたところに浜田城址(城址公園)が在る。 
小生お好みの作家・司馬遼太郎氏は、大村益次郎の伝記小説「花神」の執筆の際、浜田城攻防の歴史を調査している。 
本丸城跡の上り口近くに、司馬氏の浜田藩追懐の碑文が記してある。

『 いま、城跡は苔と草木と石垣のみである。それらに積もる風霜こそ、歴史の記念碑といっていい 』
と締めくくっている。

松原浦を見下ろす岬の先端に、藩の恩人でもあった「会津屋八右衛門」の像が浦を見下ろしている。 また、浜田漁港には「会津屋八右衛門」の頌徳碑が立つ。


次回は、「石州瓦



2017-04-19(Wed)

平成日本紀行(177) 益田 「柿本人麿呂」




 平成日本紀行(177) 益田 「柿本人麿呂」   .



https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f6/Takatsu_Kakinomoto_Jinja_Haiden.jpg


高津柿本神社(益田市)と柿本人麿呂像



「足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾之 長永夜乎 一鴨將宿」・・?、

阿武町から須佐町、田万川町は海岸にへばりつく様に、鉄路(山陰本線)と道路が並行して走る。 
午前の頃、モヤで余り視界も効かなかったけど、今はスッカリ晴れ渡り日本海の青が目に眩しいくらいである。

ところで、海岸線に沿って開けている阿武町は、自然豊かな海の町で海の幸も豊富であろう・・?。 
ただ、周辺の近隣地域であった須佐町、田万川町、むつみ村、福栄村の町村は、萩市と合併して新市制の萩市になっているのに、この一町の阿武町だけが新萩市に完全に囲まれるようにして独立自尊を決め込み、見たところ孤立して宙に浮いている感じは否めない。 

他事(ひとごと)ながら、萩市から合併の話は有ったのかどうか、又、有ったとしても阿武町自身が、それを断ったのかどうか・・?、定かではないが妙な感じは受ける。 
何事か理由があっての、単独町政を行うことを表明したのだろうか・・?。 


後になって判ったが、同町の町長は始めから合併を拒み単独町政を選んだといい、「阿武町の基金は阿武町で使いたい」などとして、広域合併の拒否を貫いたという。
だが、人口約4000人の町の現実は厳しいとされ、国と地方の税財制を見直す三位一体改革によって、この間、同交付税が大幅に減った。
それでも町の担当者は「合併でも、単独でも都市部から離れた周縁部という町の置かれた立場は同じ。合併を巡って揺れたお陰で、住民に自立意識が芽生えた。今後は町の独自性を出したい」 と意気込んでいるらしい。


田万川町の「道の駅・ゆとりパークたまがわ」で一服した後、仏峠と言われるトンネルを越えると、ここは既に「島根県」であった。 
海岸に突き出たように「サンシャインP・A」があり、余りの展望の良さに車を寄せてみた。 

寄せ木で造られた床地に、品よく石のモニュメントが施してあり、開放感ある大海原を目前に思わず深呼吸する。 
日本海の荒海と言うけれど、今は砂浜に小波が静かに打ち寄せていて、すぐ其処に浮かぶ島々も、紺碧一色に模様と彩りを添えている。


益田の町に入った。 高津川の大橋を渡ると益田市街である。
益田は、急峻な山陰の山々に囲まれている地域に高津川及び益田川が主要河川となり日本海に注いでおり、そこに、小さな益田平野が三角州状に広がっていて、その中心に益田の市街地が開けている。 

その市の西部、高津川の袂に「高津柿本神社」があり、歌人として知られる「柿本人麿呂」を祀っているという。 
どっしりとした風格の入母屋造の本殿を持つ神社で、地元の人は「人丸さん」と呼んでいるようで、読み方によっては「ひとまる・火止まる」で、火災よけの神様、「 ひとうまる・人産まる」で、安産の神様と開運、火難除け、商売繁盛、安産の神様として人々の信仰を集めているとか。

元来、柿本人麿呂は歌聖であることから、学業成就を願う学生も多く、人麻呂を偲ぶ参拝客が後を絶たないという。


『 足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾之 長永夜乎 一鴨將宿 』
-----万葉集歌

「 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む 」
-----百人一首

【 夜になると谷を隔てて独りさびしく寝るという山鳥の長く垂れた尾のように 長い長いこの夜を、私は独りさびしく寝るのだろう 】
-----現代訳  


この歌は、小生たちが高校生頃、習い覚えたもので、百人一首を嗜(たしなむ)む人達は、どなたも御存じの一句である。 
柿本人麿呂(かきのもとのひとまろ)は万葉集のみならず和歌史を代表し、しいては日本文学史をも代表する人物で、奈良朝以前の飛鳥時代の歌人である。 

生涯で300首以上の歌を詠み、「万葉集」に人麻呂作歌75首、および柿本朝臣人麻呂歌集として歌25首、計100首を載せてる。 
又、百人一首・百人秀歌の中で三番目に置かれている。


柿本人麻呂」といえば、我々にも馴染みのある歌人で、せいぜい平安期ぐらいの人物と想像していたが、これほど大昔の人とは存じなかった。 
上記、韓文字歌(万葉集歌)は一見したところ、何のことやら判らぬが、飛鳥時代には未だ平文字は無く、韓文字で書かれた原文、原歌なのである。


因みに、「万葉集」が発刊されたのは、奈良中期ごろで、集歌内容は天皇、貴族から名もない防人(さきもり;古代、北九州の守備に当った兵士のこと)、遊女ら様々な身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたものという。 

人麻呂についての人物史書や記録記載はあまり無く、その生涯については謎とされている。 宮廷での皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕事の内容や重要性からみても、政府筋の高官であったことは伺えるが。


人麻呂は、石見ノ国へ国府の役人として下向したのであろうと言われているが、その痕跡、足跡は確かでなく、当時の国府がどこにあったのかも諸説あり、現在の浜田市ともされている。 
人麻呂の終焉の地も定かではないとしながらも、有力な説として現在の島根県益田市(石見国)であるとされる。

地元では人麻呂の終焉の地を既成事実としてとらえ、「柿本神社」としてその偉業を称えている。 そして人麻呂が没したとされる場所は、益田市沖合にあった「鴨島」であるとされている・・が、現在はその鴨島そのものも存在していない。 

万葉集に残されている死を目前にした人麻呂の歌など「鴨山五首」から、人麻呂が石見の「鴨山」で亡くなったこと、そして、そこには「石川」(現在の高津川・・?)という川が流れていたらしいが、いまだこの鴨山がどこなのか確定されていないという。 

平安期、11世紀初頭の大津波で流失したともいい、海中からその遺痕が発見され、神社に奉納してあるとも云われるが、これも定かではないと・・?。

益田市は2004年11月1日に、内陸部の美都町・匹見町と編入合併し、新益田市が誕生している。


次回は、「津和野

2017-04-07(Fri)

平成日本紀行(176) 萩 「村田清風」 





平成日本紀行(176) 萩 「村田清風」   、





萩城址と指月山公園



「 来て見れば 聞くより低し 富士の山 
         釈迦や孔子も かくやあるらん
 」 清風

萩城・毛利藩は1604年(慶長9年)萩城建造に着手して以来、幕末の1863年(文久3年)、時の藩主・毛利敬親が幕府に無許可で藩庁を山口政事堂(山口市)に移すまで、萩城は260年間の藩庁としての役目を果たした。

その幕末、700万石とされた徳川宗家(幕府)の石高は別格としても、長州藩の経済規模である石高・37万石は、300諸侯と呼ばれた諸藩の中では10傑のどんじりあたりである。 
これは、将軍を出す資格のある御三家の水戸藩(35万石)や外様の広島藩(42.6万石)、佐賀藩(35.7万石)などと同規模となる。 


因みに、薩摩藩(77.1万石)は長州藩の二倍、佐幕派の雄・会津藩は28万石、大老・井伊直弼が藩主を勤めた彦根藩は35万石だった。

尤も、これらの数字は「表高」であり、18世紀後半、長州藩の実際の収入である「内高」は既に90万石に達していたとも言う。 
しかし、藩内情は、借金まみれの大赤字財政であったといい、藩の表高の数倍に当たる150万両の借金まみれの大藩であった。 
この借金財政の建て直しを行ったのが「村田清風」、この人であった。


清風は幼少時から優秀で、藩校・明倫館に入学し、ここで優秀な成績を修め、学費免除のうえ、明倫館書物方となった。 
以後、藩主・斉房から五代の毛利敬親の代まで要職を歴任し、さらに、江戸に上って兵法や海防策を学び知識を広げた。

彼は、江戸に上るときの秀句を詠んでいる、

『 来て見れば 聞くより低し 富士の山 
          釈迦や孔子も かくやあるらん
 』

その後、彼が55歳の時、表番頭と江戸仕組掛を兼任して藩政の実権を掌握する。
そして、藩主・毛利敬親の下で長州版・天保の改革に取り組んだ。


この敬親は政治的にはやや暗愚で消極的であったらしく、事に及んで何事も「そうせい」といい、「そうせい侯」とまで呼ばれたが、それが逆に幸いして清風は何一つ遠慮すること無く、藩政改革に手腕を振るうことになるのである。 

財政の再建、軍制改革と、贅沢に慣れた士風の建て直しに着手する。 
倹約」、「勤勉」そして「能力主義」などを全面に押し出し抜本的改革を、やや強引に思えるほど断行する。 
こうなると当然、藩士から反感をかうことになり、暗殺を企てる者も一人や二人ではなかったという。


しかし清風は、改革の途中で中風に倒れ、家老職は後継に譲って隠退した。 
その後、病から回復した彼は子弟教育に力を注ぐ。 

彼という先人によって、「吉田松陰」のような藩士としては身分は高くはないが、有能で志のある後進・後輩が台頭する道が大きく開けることも繋がった。 
後に一時、長州藩を絶望のふちに追いやるが、倒幕、維新を成し遂げる原動力ともなるのである。 

この時期、松蔭と清風は47年の歳の開きがある。 
藩の軍政をになう俊才であった松蔭は、少年の頃から清風とは面識があったようだが、この祖父と孫ほどの二人が手を携えて行ったのが、藩校・明倫館の改革、拡張でもあった。

明倫館(めいりんかん)は、水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷黌と並び、日本三大学府の一つと称される。 

1718年(享保3年)、萩藩6代藩主(毛利吉元)が萩城・三の丸追廻し筋に創建、後に、14代藩主毛利敬親が藩政改革に伴い萩城下に移している。 
萩・明倫館は、現在、萩市立明倫小学校の敷地内となっており、有備館、水練池、聖賢堂などの遺構が残っている。1919年、国指定史跡を受けている



城址からの海沿いの道を行くと菊ヶ浜という松緑、白い砂浜が現れ、遠くに城址のこんもりした指月山の姿と相まって実に秀美である。 

気が付けば「」の町には至る所に松ノ木が有り、これが古跡の町の風情に良く似合っているのである。 

町外れの国道沿いに、萩・反射炉の遺構がある。 
1858年(安政5)に萩藩が鋼鉄製の大砲製作のために建設した西洋式金属溶解炉(史跡)である。 
薩摩藩や水戸藩などがあいついで建設したが、現存するのは、ここと静岡県伊豆韮山の2基のみという。


2005年3月6日、旧萩市が阿武郡川上村、田万川町、むつみ村、須佐町、旭村、福栄村と対等合併し、新市制による「萩市」となっている。


次回は、「益田」 



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