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2017-04-21(Fri)

平成日本紀行(179) 浜田 「会津屋八右衛門」




平成日本紀行(179) 浜田 「会津屋八右衛門」 ,





https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcQ3-x-3fJ3at6z_Df4is8PW3qT5aC4pRohBDOjKtx9500wV-jIV
道の駅・「夕日パーク浜田」から望む浜田港





江戸期、商人・会津屋の密貿易で浜田藩は窮乏から脱したという。 即ち、会津屋は藩の恩人であった。 だが、幕府の罪人でもあった。?、

山間の三隅町から再び海岸へ出た所で「夕日パーク三隅」というのが在り、次に「夕日パーク浜田」という道の駅が在って、この地で小服する。 

気が付くと、先ほど展望休憩したところは“サンシャイン”と言っていたが、こちらは、“夕日・パーク”と和洋折衷の個名で、何れも下手な英名を名乗ったり、英名と国語(日本語)がチャンポンになったりで、忙(心が亡ぶ=忙)しい国である。


夕日パーク浜田」は浜田港を見渡せる高台にあり、港周辺の展望が抜群である。
港を往来する巨大船舶、小漁船と相まって、島へ渡る近代的な大橋が一つの風景となって見渡せる。 
橋は「マリン大橋」といい、島は「瀬戸ヶ島」といい。すぐ左にも同様の島々が有って美観を添えてる。

ただ、この巨大な架橋は国際貿易・水産都市浜田のシンボルとして、総工費約70億円を費けての竣工したものらしいが、一般地元の人の見る目は冷めていて、その意義や有益性については疑問視もあるという。 

浜田港は、島根県唯一の国際貿易港として今は三万トンクラスの船舶が利用可能となっているらしいが、将来は五万トンクラスの大型船舶が利用できる港として整備中とのこと。
平成13年には浜田港と韓国の釜山港を結ぶ国際コンテナ航路が週1便開設されていて、更に浜田港は、北東アジア地域の交流促進や県西部の活性化が期待されていという。


石見地方の中心都市・浜田が、本格的に城郭と城下町、そして湊町が築かれたのは江戸時代初期のことである。 
築城主は元和5年(1619)、伊勢・松坂から転封されてきた古田重治(ふるたしげはる:羽柴秀吉の家臣だった古田重則の三男)だった。 
浜田藩・5万5千石の本拠地として浜田城を整備し、この時、築城ならびに城下町整備のために重治が大坂から連れてきた瓦職人がいて、それらを伝えた技術が後の石州瓦発展の基礎になったそうである。

その後、浜田藩は古田家以降、五家十八代続き、長州(山口県)の毛利氏に対する最前線の抑えとしての役割を果たしてきた。

しかし、江戸末期の慶応2年(1866)、第2次長州征伐の際には山陰方面の幕府軍の拠点となったため村田蔵六(後の大村益次郎)率いる長州軍の猛攻を受けて落城する。 
藩主の松平武聡は城に火を放って鳥取へ逃亡し、250年近くに及んだ浜田藩の歴史は幕を閉じている。


江戸期における浜田港は、北前船の寄港による物資の集散地として栄えたが、一方では、密貿易も行っていて浜田藩は更に潤ったとされている。

江戸時代は鎖国時代であって、海外との貿易が許可されているのは幕府直轄の長崎港だけで、鎖国を破り海外との貿易を行うことは幕府への反逆行為として大罪であった。 
しかしながら、鎖国の本当の理由は、幕府が海外貿易の利益を独占するために行ったという説もあったようである。 
実のところ幕藩時代は、どの藩も財政が窮乏しており、江戸後期には内密で薩摩藩をはじめ、危険を冒してでもその密貿易に手を付けた藩や人物は結構いたようである。

浜田港は北前船の交易も盛んであったが、当節の浜田藩の財政難を見かねた藩の商人「会津屋八右衛門」は密かに朝鮮のウルルン島(当時は竹島)に船を出し交易を行い、数年で何十万両もの利益を上げ、それによって浜田藩は窮乏から脱したとのことであった。

しかし、それも幕府の隠密ともされた「間宮林蔵」(隠密説は・・・?)に摘発され、発覚して天保7年(1836年)に八右衛門は死罪となる。 又、責任者でもある藩の家老や年寄などの重職も切腹、藩主の松平家も福島に国替えとなっている。 
浜田藩庶民の安定した暮らしの中には、このような犠牲も有ったのである。


因みに、間宮林蔵は江戸後期の探検家で、伊能忠敬に測量術を学び、幕命によって北方、北樺太を探検、後の間宮海峡を発見し、地図上でもその名前を残していることは周知である。 

その林蔵は、幕府の隠密でもあったとされる。 
晩年には勘定奉行・遠山景晋(とおやまかげみち・北町奉行・遠山金四郎の父親)の部下になり、幕府の隠密として全国各地を調査する活動を行う。 

普通に見ると、探検家が隠密に転身したような見方もあるが、そもそも樺太探検自体が対ロシア・対清国の隠密行動であり、諜報活動でもあった。 

忠敬は石州・浜田藩の密貿易の実態を掴み、大坂町奉行に報告し検挙に至らしめている。 
彼は隠密らしく変装の名人であり、アイヌ民や乞食など様々な変装をこなしていたともいう。 
浜田藩の密貿易調査の際も、商人に変装して回船問屋・会津屋へ潜入に成功している。 
後に間宮は、「乞食に変装した時は、(着衣がボロボロなので)預かった資金を懐中に隠すのに苦労した」と述懐していたという。


浜田港の東方、一丘越えたところに浜田城址(城址公園)が在る。 
小生お好みの作家・司馬遼太郎氏は、大村益次郎の伝記小説「花神」の執筆の際、浜田城攻防の歴史を調査している。 
本丸城跡の上り口近くに、司馬氏の浜田藩追懐の碑文が記してある。

『 いま、城跡は苔と草木と石垣のみである。それらに積もる風霜こそ、歴史の記念碑といっていい 』
と締めくくっている。

松原浦を見下ろす岬の先端に、藩の恩人でもあった「会津屋八右衛門」の像が浦を見下ろしている。 また、浜田漁港には「会津屋八右衛門」の頌徳碑が立つ。


次回は、「石州瓦



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