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2017-11-30(Thu)

平成日本紀行(207) 三国 「九頭竜川流域」




「旅は道連れ、世は情け」>(日本の諺;江戸いろはカルタ)





 平成日本紀行(207) 三国 「九頭竜川流域」  .






九頭竜川河口に広がる三国港





荒々しくも見所一杯の越前海岸の国道305号を北上し、三国町に近付くに従って、どうやら穏かな平地が広がってきた。 

左手には、今までの自然景観とは異なって、海岸に沿って物凄い工場群が連なっていた。 
その終点に「九頭竜川」が万端の水をたたえて、すぐ其処の日本海へ注いでいる。 

三国の地柄は日本海に沿って臨海企業、工場群が林立し、湊は九頭竜川の河岸に沿って開けている港といってもよい・・!。 
これは往年の九頭竜川水運の特徴を今に残しているのかもしれない。


九頭竜川(くずりゅうがわ)は、福井県嶺北地方を流れる九頭竜川水系の本流で、越前福井と飛騨岐阜の国境にある油坂峠(717m)辺りを水源として、九頭竜ダムを経、大野盆地・勝山盆地を北西に進み、福井平野を潤しながら日野川と合流し北進、三国(現在の坂井市)で日本海に注いでいる。 


その九頭竜川は昔から河川物流、水上交通、水運の要として重要な地位を占めていた。

昔の人々が辿った陸路は、峠越えなど自然条件も過酷で難渋が多かった。 
そのため林産物や平地で採れた穀物など重い荷物の輸送には大変苦労する。 
そこで舟を利用した海、湖、川を利用する水上交通が発達した。

九頭竜川流域には、奈良時代は東大寺荘園、平安時代には興福寺兼春日社領荘園が多くあり、流域で産出された米や穀類などは、舟で九頭竜川から三国湊に集められた。
それから海路を敦賀まで廻送し、敦賀で陸揚げされた産物は駄馬に積み替えられて、陸路を琵琶湖の北岸にある海津、塩津まで運ばれ、次に琵琶湖水運を利用して大津まで廻送され、再び、荷揚げされて陸路を都や大阪へと運ばれたという。


九頭竜川は本流、支流とも昔から舟を利用した輸送が盛んに行われ、併せて良港や街道と交差する河川付近には市が立ち、人々が集まって発展してきたとする。 

特に嶺北七郡の諸物資は、舟で九頭竜川などを下り、日本海沿岸にある交通の要地、三国湊に集まったという。 
江戸近世の頃は、三国湊と越前国内の諸河川を往来する舟の利用度が高くなり、三国湊~福井間を往来する舟は昼夜の別なく舟便があったとされている。



九頭竜川の名の由来や伝説
この川は有史以来氾濫を繰り返す大河で、当初は「崩れ川」とも呼ばれていたが、いつしか変じて九頭竜川と名づけられるようになったという説もある・・?。 

しかし、“九頭竜“とは本来、印度伝来の仏法から生じたもので八大竜王(原型はインドの河の神様。後に仏教に取り込まれ、護法尊となり、その数が増えて八になった)の一仏神とされる。
昔から水の神、雨乞いの神様として各地に祀られている。 
或いは、水を治める為に命名されたものであろう。 

他に、平安中期、平泉寺の白山権現が衆徒の前に現れ、その尊仏像を川に浮かばせたところ一身九頭の竜が現れ、尊像を抱いて流れに下り黒竜大名神社の対岸に着いたという。
それ以降、この川を九頭竜の川と名付けられたとする。

その九頭竜は仏教と神道を守る神仏習合の神となり、水の神、雨乞いをつかさどる神として信仰を集めた。 
そして、九頭竜川の源流域から中流域の東部にかけては、「加賀白山」の大山域が横たわり、この山麓一帯は日本の三大山岳霊地とされた加賀白山信仰が盛んな地でもあった。 

その中心が勝山市の「平泉寺・白山神社」である。


次回は、「平泉寺・白山神社」 
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2017-11-27(Mon)

平成日本紀行(206) 越前 「越前地方」(2)


「旅のなかで生きる喜びを感じ、創造への意欲をかりたてる」 






 平成日本紀行(206) 越前 「越前地方」(2)  .





http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-181.jpg
越前町厨地区:甲羅に似た「越前がにミュージアム」





この先、その越前海岸を行くことにする。
早速、険しい海岸線のR305を行くことになる。 
間もなく「白竜の滝」という園地が在って、そこから一筋の滝が流れていて涼味を誘う。 

山中ならば何処にでも在りそうな、何の変哲も無い小滝であるが、海岸にいきなり流れ落ちているのは普通でない。 
道路も園地もない以前の自然のままであったら、いきなり日本海に落ちていたのかもしれない。 

又、この公園の南には、大正末期に舞鶴へ向かう途中、この沿岸付近で座礁・破船した軍艦の遭難園地があり、園内には墓銘碑も建っていた。 
大正13年12月12日、舞鶴港へ向かう特務艦・「関東」(民間から転用された軍需用の給油艦)が激しい吹雪に見舞われ、河野村糠地区の沿岸で座礁破船した。
事故の報せを受けた河野村民は、自らの危険も顧みず献身的な救助活動を繰り広げたというが、97名の尊い命が奪われた。



山肌の急斜面を無理やり切り取ったような海岸線に道路を付け、所々に道路に沿って人家があり、鄙びた漁村も点在している。 
傍目(はため)では、長閑な雰囲気の海辺の田舎の風景であろうが、われわれ都会人・・?から見ると実際の生活は大変だろうな、と変に勘ぐってしまうのである。 
しかし現地の生活者に言わせれば、余計なお世話と叱られるかもしれない。 
それにしても、厳冬期に日本海の季節風を的もに受け、実感としては厳しい地域風景を想像するのである。


河野村は、2005年1月南条町、今庄町が合併、「南越前町」として誕生している。
そして、「此れより越前町」の標識があった。 
その千飯崎海岸近くにも集落と小さな漁港があり数艘のイカ釣り船が待機している。 
この近辺も、海水面付近の波の侵食作用によるのだろう、海上には無数の奇岩、怪岩や海食洞などが形成されていて、見る者を圧倒させる。

久しく賑やかな港へ出た、越前町のである、である・・?、 


ミナト」のことである、
昔はミナトを「」と書き、今は「」と書くらしい・・? 、
漢字源から察すると湊は陸の部分を指し、港は水の部分を指すらしい。 
船が越前の港に入り、越前の湊に着く、とするのが正しいようである。
今、日本語が乱れていると言われるが、このぐらいの事はどうでもいいか・・?。


貴重な平地(殆どが人工的に造作した)に細長く人家が立ち並び、やはり陸地にへばり付くように湊が展開している。 
ここは言わずと知れた「越前カニ」の最先端の基地である、カニの看板を付けた漁業関係の店や民宿風の宿屋が目立つ。  

日本海の冬の味覚、ズワイガニ漁は11月頃から冬場にかけて最盛期をむかえる。 
解禁と同時に海が荒れなければ、日本海に繰り出していた漁船が底引き網を投下し、網を引いて海底にいるカニを捕る。 
福井県内の漁船は夕方には港に帰り、水揚げされたカニは早々に競りに掛けられる。


一般には「ズワイガニ」と呼び、福井県では越前ガニ、山陰地方にいくと松葉ガニと呼ぶらしい。 
ズワイガニは雄カニの名称で、雌ガニはセイコガニと呼ぶらしい。 これは初耳であった。 雌のセイコは背(背中)に子(卵)をもっていることから「セイコ」と呼び名が付いたという。 
他に山陰地方ではセコガニ、石川、富山県ではコウバガニ、丹後地方などではコッペガニとも呼んでいるという。


ズワイガニは日本海、北方海域に広く生息していて、日本海では水深200メートルから500メートルの範囲に生息し、カニを賞味する日本人の嗜好が、ズワイガニを冬の味覚の代表とした。 

一時は取りすぎで、カニ資源が枯渇するのでは、という懸念があったが、最近では沿岸自治体、漁港関係者等の努力で資源保護の成果も挙げてきているという。

最近、某水産メーカーが「ベニズワイガニ」を「ズワイガニ」として商品表示したとして、公正取引委員会から排除命令を出された事件があった。

ズワイガニ(本ズワイ)は、「松葉ガニ」、「越前ガニ」などの地域ブランドで知られる高級品として扱われている。 
それに対し、ベニズワイガニは同じズワイガニ属の近縁種であるが、若干水っぽい肉質・鮮度落ちが早いなどで、加工用として用いる場合が多いという。 
価格もズワイガニの1/5以下の値段で取引されているようである。

越前ガニで名高い越前町厨海岸(くりやかいがん)には、国内にただ一つ、越前がにの生態を学べる「越前がにミュージアム」がある。 


次回、「越前の渡来人




2017-11-22(Wed)

平成日本紀行(206) 越前 「越前地方」




 「旅は私にとって、精神の若返りの泉だ」  
<アンデルセン>







平成日本紀行(206) 越前 「越前地方」 .







 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-179.jpg



 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-178.jpg
日本海の荒波寄せる特異な越前海岸







敦賀から福井・越前に入るには、越境山脈を超えなければならない。

ところで、現在の福井県の県域は若狭湾から北陸と呼ばれる三国町(現、坂井市)辺りまでをさすが、昔は若狭の国、越前の国と行政上の二国としての区分があったらしい。 

今の呼称としては若狭とか越前というのは余り言わないらしいが、愛称として、若狭、越前の代わりに越境山脈を境に嶺北、嶺南などと呼んでいるらしい。 

即ち、鉢伏山を主嶺とした海側から山中峠~木ノ芽峠~栃ノ木峠の稜線より北東部を嶺北(れいほく)地方と、南西部を嶺南(れいなん)地方と称しているようで、この福井県の両地域は人や地域の気性(サガ)も異なると言われている・・?。

又、歴史的な経緯を見ても、明治4年の廃藩置県により福井県ができてから、現在の嶺北地方を福井県、嶺南地方を敦賀県に整理・分県された時期もあった。 
その後(のち)、10年後の明治14年に其々分離統合されて、現在の福井県が設置された。 従って、往時の呼称、分県状況から越前即ち嶺北地方、若狭を嶺南地方と今でも呼んでいるようでもある。


北陸越前といったら一般には、この敦賀の山域を越えた今庄辺りから武生、鯖江、福井本庁から丸岡、金津あたりと、内陸部の大野、勝山あたりを指すのが普通である。 
所謂、越前平野(福井平野)といって、肥沃な平地が広大に広がる地域で、日野川、足羽川、

そして、あの九頭竜川が揉み合うようにして氾濫を繰り返し、その都度大量の土砂を置き去りにし、沖積平野を形造ったという。


この越前地区は、古来より越の国として人、物が頻繁に流通し、又、戦乱の相克が激しく興った地域でもある。 
現在でも道路、鉄道、高速道が南北に駆け巡り、古来より変わらぬ交通の要衝となっている。 

尚、新幹線についても構想が進捗中で、長野から上越、富山、金沢、福井、敦賀、小浜を経て新大阪へ繋がる北陸新幹線が着々と進められている。 
これによって何れは、北陸新幹線が東海道新幹線と、即ち、日本の中心地域である太平洋岸と日本海側が直結され、関東・北陸・近畿・中京・東海を環状に結ぶ高速交通ネットワークが形成されつつある。 



敦賀より発した国道8号線は、一旦、沿海を北上するが山中峠(トンネル)を抜け、河野村辺りで内陸の福井平野に至っている。 
海岸線は敦賀北部の比田地区で分岐した国道305号線が走っている。 
この越前海岸地域は、越前岬を西端に緩い「く」の字形で日本海へ突き出ている。 
海岸線はいきなり聳え立つ山稜を呈し、急峻な海岸段丘や海食断崖が続いていて近年まで人跡少なく、陸路は永年交通の難所だった。 

所謂、標高700m前後の「丹生山地」が、沿岸山地と内陸の福井平野を切り離すように壁が造られているのである。 


次回、引き続き「越前地方

2017-11-21(Tue)

平成日本紀行(205) 敦賀 「原子力発電」



旅の諺  「東へ行った、西にも行った、やはり、わが家が一番だった」





平成日本紀行(205) 敦賀 「原子力発電」 .





https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b8/Monju.JPG
敦賀市にある高速増殖炉「もんじゅ」



敦賀へ来たら、もう一言書かねばなるまい、「原発」のことである

敦賀原発街道とも言われ、敦賀一帯は原発が多いところである。 
敦賀原発、美浜原発、他・・、そして、高速増殖炉の『もんじゅ』と軒並み話題の多いところでもある。 

そして、「もんじゅ」は原子炉設備の疲労破壊で金属ナトリウム漏れが発生し、運転停止してからもう10年以上になるがまだ動かない・・!。



ここで高速増殖炉と「もんじゅ」について・・、

原子力発電の原料とされるウランには、燃え易いウラン235(0.72 %)と燃えないウラン238(99.28 %)がある。 
通常、ウラン235は容易に核分裂反応を起こすため、原子力発電に用いられている。

ところが、燃えないウラン238にも使い道があって、中性子を吸収することにより新しい燃料のプルトニウム239に変わる性質をもっている。

この性質をうまく利用し、消費した以上の燃料を作り出すのが増殖炉といわれる。 
即ち、プルトニウム239に効率よく変換することで、燃料を生み出すことができるという。 これを「増殖」といい、増殖によりウラン資源を有効利用できるとされる。

中性子の中に、エネルギー値の高い「高速中性子」というのがあり、これを利用してプルトニウムを更に「増殖」させることから、この原子炉を「高速増殖炉」と呼んでいる。 

燃やした燃料よりも多くのプルトニウムが炉内で生成され、つまり発電しながら燃料が増えてゆくわけである。 
この高速増殖炉を使うことによってウラン資源の利用効率が100倍以上と飛躍的に向上するともいわれる。

ウランを輸入に頼っている日本にとっては貴重な「国産燃料」が獲得でき、将来のエネルギー政策の本命と位置づけられている。 
現在、敦賀市で試運転中の『もんじゅ』と云われる原子炉がそれである。(現在は休止)


しかし、それには単純ではない問題がある・・!、
普通の原子炉(軽水炉)に比べて非常に危険で技術的にも難しく、費用も高くつくとされている。 
特に、冷却材として金属ナトリウムが使用されている。 

これは熱伝導率が良く、高速の中性子を減速させない特性があり、現在のところこの冷却材が最適とされている。 だが、ナトリウムは水と激しく反応し、発火性が高い欠点をもっている。 
実験・開発中の増殖炉型原子炉では事故や故障が相次ぎ、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスなど、先進諸国もすべて開発を諦めたという。


ウランを燃やす過程で、燃料のプルトニウムが生成され増殖する高速増殖炉・・!、
即ち『もんじゅ』は、水と激しく反応する「ナトリウム」を冷却材に使用している。 
この原子炉は今だ研究開発の段階であるが平成3年4月、敦賀市に完成し、同6年4月に初臨界(原子炉内において核分裂連鎖反応が一定の割合で継続するようになること)を迎えた。 

しかし、この炉は平成7年12月8日、試験運転中に冷却管の温度計のサヤが折れて約640kgのナトリウムが漏れ、火災が発生するという事故を発生させた。 
この時、開発事業団の事故隠しや対応の遅れなど不透明性さが社会的批判を浴び、そのため現在は操業中止になっている。 


因みに『もんじゅ』の命名は、仏教の文殊菩薩に由来する。 文殊菩薩は「知恵の菩薩」とされる仏さんであり、高速増殖炉は高度な知恵が必要とされることから命名されたのであろうか・・?。


ところで、国内初となる原子の火が点ったのは半世紀前の1957年で、茨城県東海村に日本原子力研究所東海研究所の第1号原子炉において臨界に達してた。 
その後、石油危機を経て、電力供給の安定が求められ、原子力発電所の建設が相次ぎ、現在は全国で50基以上の発電用原子炉が運転しているという。 

その原発による電力量は日本の電力の約3分の1を占め、火力発電に次ぐエネルギー源となっている。 
その中にあって、特に、福井県若狭湾に面した一帯は、原発関係の設備が集中立地して原発銀座と言われるほど多く、関西電力の電力構成に占める原子力発電の割合が他社よりも高くなっているという。 

現在、敦賀に二基(二基増設計画)美浜町に三基、大飯町・高浜町に各四基の計13基、営業稼動中であるという。 
その中に高速増殖炉・『文殊・もんじゅ』は、敦賀市の敦賀半島北端部に位置する、日本原子力研究開発機構の原子力発電所内にある。


次回は、「越前海岸

2017-11-20(Mon)

平成日本紀行(205) 敦賀 「気比祭神と御食(みけ)の国」

「百聞は一見にしかず「」 <日本の諺>






 平成日本紀行(205) 敦賀 「気比祭神と御食(みけ)の国」  .






http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-177.jpg
気比神宮摂社・角鹿神社(ツヌガ神社)





若狭地方の敦賀は、古来より日本海を通じて大陸との交流が盛んでであった

古代(奈良朝時代以前は歴史的には原始古代ともいう)、特に仲哀天皇の時期(2世紀末)においては日本は朝鮮との緊張状態にあり、天皇は即位してすぐに気比神宮に戦勝祈願の参拝をしたとされる。 

この時の主人公で女帝に順ずる「神功皇后」も同行して、三韓征伐の前に武内宿禰(タケウチノスクネ;天皇に仕える棟梁之臣・大臣で、国政を補佐したとされる伝説的人物)や玉妃命(タマヒメノミコ神功皇后の御妹)とともに当社に祈願している。

このとき気比大神が玉妃命に神懸りして皇后の勝利を予言したという。 
更に、三韓平定の後、皇后は子である誉田別命(ホコタワケノミコト;後の応神天皇)らを従えて参拝したともいう。 


三韓征伐(さんかんせいばつ)とは日本書紀にも記述があり、神功皇后が行ったとされる朝鮮への(主に新羅・しらぎ)出兵をさしている。 
新羅が降伏した後、三韓の残り二韓(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるため三韓の名で呼ばれ、新羅征伐と言う場合もある。 
神功皇后が帰国の際、子である応神天皇を身篭っていたともされる。



気比神宮は日本海を通じた敦賀と大陸との交流から、大陸外交に関する祈願の対象として大和朝廷(最近はヤマト王権ともいう。因みに、大和朝廷は6世紀頃の古墳、飛鳥時代とも・・、)も重視し、三韓征伐を前提として創建、鎮座したともされる。 

神功皇后が仲哀天皇の命により敦賀から半島へ船出したという記述もあり、又、気比神宮は、若狭地方における御食(みけ)の国(食の貢進国、すなわち皇室・朝廷に海水産物を中心とした御食料〈穀類以外の副食物〉を貢いだ国を指す)の総社ともいわれる。


気比神社の境内に、摂社として「角鹿神社」(ツヌガ神社)が祭られている。 
摂社祭神は、都怒我阿羅斯等命(ツヌガアラシトノ命)とされ、元々、渡来の任那(みまな、にんな・朝鮮半島の南部地域、三韓の一部)の皇子であり、気比の浦に上陸してこの地方を治めていたとされる。 

後に、都怒我阿羅斯等命は朝廷(王権)に貢物(御食・みけ)を奉じたことから笥飯大神とされ、気比神宮の司祭と共に敦賀の地に祀られた。 
敦賀の地名は、古代「角鹿(ツヌガ)」と呼称されており、元々、この地方を治め、地名発祥の神であった。 


応神天皇が皇太子の頃、角鹿(つぬが)にてツヌガの神から御食(みけ)を賜わったことから御食津大神(ミケツオオカミ)と讃えられ、笥飯大神(ケヒノオオカミ)としても崇められたという。 
ケヒとは「食(け)霊(ひ)」の意味であり、即ち、「気比」の名の起こりとされる。 

つまり、応神太子が角鹿の地(敦賀)へ遠征された時、この地を収めていたされるツヌガの神と談判し、その結果この豊穣の地を譲り受け、土地の領有支配や物資(食料その他)の調達を認めさせたとされる。 

即ち、大和朝廷(大和王権が正式名・・?)の支配下に置いたということか・・??。 

当初は、敦賀を支配していた角鹿の神(ツヌガアラシトノ神)が主神の「角鹿神社」であったが、応神天皇(大和王権)らによって支配下におけれ、気比大神の摂社になってしまったというのである。


気比神宮は、古くから御食津神(海産食物を司る神)として、海の航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に神徳・霊験著しいとされて鎮座した。 
尚且つ、渡来系の神とあって、海人族に信仰されてきた神ともされているという。 


以来、越前国一宮として隆盛したが、室町期における南北朝の対立の時代には南朝に、又、戦国時代には信長に亡ぼされた朝倉氏に付いたことから社勢は一時衰退したという。 

江戸時代になって福井藩祖の結城秀康(家康の次男、秀吉の養子)の保護を受けて再興し、明治28年(1895年)、神宮号が宣下されて正式に「氣比神宮」に改称され、官幣大社に列格している。


いずれにしても、古き良き時代の神社や寺院仏閣の成り合いを紐解いてゆくと、そこに必ずといっていい程、当時の日本の歴史の一端が垣間見えてくる、これが何とも面白く、愉快なのである。


次回、「敦賀原発

2017-11-17(Fri)

平成日本紀行(205) 敦賀 「松原と神宮」





「旅の終わり、そして本当の旅の終わりは・・?」






 平成日本紀行(205) 敦賀 「松原と神宮」   。






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気比の松原





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気比神宮大鳥居と本殿



敦賀半島の根元にあたる旗護山トンネルを抜けると、ここは既に敦賀である。
更に、若葉町の交差点を左に折れ、ぶち当たったところが巨大な松原と素敵で静かな海が広がっていた。 

砂の浜辺と壮大な松原は「気比の松原」と称した。 
広大な広さの中に17,000本にも及ぶ各種の松が並び、夏には美しい浜辺で海水浴も楽しめると言う。 
普通、日本における海岸の松林はクロマツが多いと言われるが、気比松原では赤松が8割以上も占め、日本の白砂青松100選にも指定されていて三保の松原、虹の松原と共に日本三大松原として知られる。 


1934年(昭和9年)に国の名勝に指定されている。 
リアス形のギザギザ若狭湾の西の端には、先ほど訪れた日本三景である松の名所「天橋立」があり、ここ、東の外れには、やはり松の名所、日本三大松原の「気比の松原」が在ったのは面白い・・!。



敦賀は、若狭湾に突き出た敦賀半島の影響で、季節風の強まる冬でも日本海沿岸の中では比較的穏やかとされる。  
古代より敦賀湾の静かな沿岸は天然の良港として栄え、又、近代以降は北陸と関西を結ぶ位置から鉄道や道路の要地ともなっている。 

かつては北九州や出雲と並んで古代朝鮮との交通の要衝でもあり、古書には・・、
『上古(じょうこ・むかしむかい、かなりの昔)における敦賀の港は三韓(古代朝鮮)交通の要地にして、三韓・任那人(みまな、にんな)等の多く此地に渡来し、敦賀付近の地に移住土着したる者少なからず。其族祖神を新羅神社として祭祀せるもの多く、信露貴神社亦共一に属す』とある。 


敦賀付近には新羅(シラギ)の宛字と思われる土地名や神社名が多いという。
例えば敦賀市の白木、神社名では信露貴彦(しろきひこ)神社・白城(しらき)神社・白鬚神社などがあるという。



気比の松原から東へ2km程度、そこは既に敦賀の市街地でもあり、その中心部に「気比神宮」が堂々と鎮座していた。 
参道入り口には、高さ11mの朱色の大鳥居(重要文化財)が威風を放っている。

この鳥居は、奈良・春日大社の大鳥居、安芸の宮島・厳島神社の海上鳥居と共に日本三大木造大鳥居の一つに数えられるという。

主祭神は、伊奢沙別命(イザサワケノミコト、別名 気比大神、笥飯大神)、他に、相祭神として仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、日本武尊(仲哀天皇の父)、素佐之男命、玉姫尊(神功皇后の妹)、武内宿禰(タケウチノスクネ)と錚々たる著名な神々が祭れれている。 

日本武尊の子とされる仲哀天皇と神功皇后は夫婦であり、その子が応神天皇で親・子の関係にあり、共に九州・宇佐八幡宮の主祭神でもある。

主祭神である「伊奢沙別命」の名義は不明であるが、神代より現在地に鎮座している地主神とされ、現在の天筒山(てずつさん・標高170mで金ヶ崎と連山をなし岬に突き出ている)に天下った神で、山域には神霊蹟もあるという。 

北陸道や日本海の海上交通の要地であるこの地において、古くから北陸道総鎮守として崇敬された神とされる。


次回、「気比神宮の祭神


2017-11-16(Thu)

平成日本紀行(204) 三方 「三方五湖」

「長生きするものは多くを知る。 旅をしたものはそれ以上を知る。」 <アラブの諺>  






平成日本紀行(204) 三方 「三方五湖」   .




http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-172.jpg
写真(資料):三方五湖俯瞰



 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-173.jpg
三方五湖の1つ「久々子湖」



国道27号の丹後街道から三方町、三方五湖へ向かった。 

先刻から若狭湾の入り組んだ入り江を見慣れた来たため、五湖の一角を眺めても入り江と錯覚してしまうほどである。

先般、身内親戚等と北陸旅行した際に五湖を訪れているが、周辺には展望ロードがついていて五湖を見下ろすのに最適地といわれる「梅丈岳」という高所から若狭湾や五湖の自然景観を眺め、その眺望の良さを充分堪能したのを覚えている。
そんな訳でもないが、今回は一湖でも二湖でもいいから美景を眺めて済まそうと思った。


国道より小浜線の気山という駅の手前から左へ逸れて、立派な地方道をゆくと名前は知らないが一つの湖畔に達した。 
すぐ横が小高い園地になっていて湖面が一望できる、右はるか前方は大きく開けて、若狭湾の大洋を示しているとすれば、ここはあるいは「久々子湖」なのかも知れない。 

久々子と書いて「くくこ」と読みたいが、湖(こ)を合わせると「くくここ」となって何か妙な読み方になってしまう。 
実際は、「くぐしこ」と称するらしい。 

湖面は微風に揺られて微かに小波が立ち、遠くの周囲は緑の小山に囲まれ、実に茫洋として気持ちがいい。  

なにか頼りなげになってしまったが・・、    


『 若狭なる 三方の海の 浜清みい往き 
還らひ見れど 飽かぬかも
 』

と万葉集にも詠われている景勝地である。



五湖の関連性・・、

久々子湖や日向湖は直接外海とつながっていて、塩水混合湖、即ち、汽水湖になっているが、奥まった三湖も現在では人工的につながっているという。 

水月湖、菅湖は半汽水湖になり、最奥部の遠く離れた三方湖は完全淡水湖であるという。
久々子湖は昔は大きな若狭湾の入江であったが、東に流れる耳川によって海に運ばれた土砂が入江に堆積し、入口が殆ど塞がれてしまったことで久々子湖(潟)が誕生したという。 

対して他の湖は、地層の変化によってできた天然湖である。 
即ち、五つの湖は海水・汽水・淡水とそれぞれに違った水質や水深を持ち、また同じ汽水湖でも日本海に直接つながっている久々子湖と奥にある菅湖や三方湖、中間の水月湖ではそれぞれ海水と淡水の割合が違っている。 

そのため梅丈岳(三方五湖レインボーライン展望台)から見える景色は、五つの湖がそれぞれに違った青色をして見えるという。 
形成過程の異なる五つの湖は、濃さの違う青色に見えるので「五色の湖」とも呼ばれている。


三方湖、水月湖は、色鮮やかな新緑や紅葉を湖畔の水面に映し出し、自然と調和していて家並みや湖を囲む低い丘陵、湖畔沿いの梅林など、緑豊かで穏やかな風情に満ちている。 

又、隣町の美浜町にまたがる久々子湖は、単調な砂浜と松林の続く久々子海岸、松原海岸に接している美しい景勝地で、北端の岳山から日本海と三方五湖を眺めることがでる。 

外洋に直結している日向湖は、以外にも周囲には急峻な山をめぐらし、あたかもすり鉢の底に水をたたえたような形である。 

日向湖北岸には山と湖にはさまれた狭い湖岸の山の陰に、細く長い日向集落が軒を連ね、漁村風景の趣が感じられる。 

それぞれの特性を持つ三方五湖は、若狭の景勝地として国の指定の「若狭湾国定公園」の代表的な地域である。



車を進めながら気が付いたが、湖の湖畔には延々と梅ノ木が、しかも奥行き深く植栽されていた。
梅林は三方五湖周辺全体に植えられていて、スケールの大きさは五湖周辺だけで7万本もの白梅の木(白加賀という品種・・?)があるという。 


梅の植栽は江戸末期、旧西田村の豪農・助太夫家と平太夫家の庭に、偶々(たまたま)、梅の木を植えたことから始まったといわれる。 

この梅は、両家の名にちなんでそれぞれ「助太夫梅」や「平太夫梅」と呼ばれ、品種改良を経て「紅映(べにさし)」、「剣先(けんさき)」などの名を付け、福井の地に定着したという。


又、湖畔に割烹や小料理店の「ウナギ」と書いてある看板が多く目立つ。 

ウナギといえば浜名湖の養殖が有名であるが、同じ汽水湖の三方五湖も条件としては同様で、やはり地域の特産、名物なのであろう。 


しかし、昔から梅干しとウナギは食い合わせが悪いものと言われていたはずだが、相反するものが同じ場所にあるのはなんとも奇妙である。 
だが実際、食い合わせが悪いというのは迷信であり、梅干しもウナギも真夏を乗り切るためには欠かせない、スタミナ食でもある。


次回は「敦賀


2017-11-14(Tue)

平成日本紀行(203) 小浜 「お水送りとお水取り」

「寝てばかりいる賢人より、放浪する愚人」 






平成日本紀行(203) 小浜 「お水送りとお水取り」 .




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写真:神宮寺本堂




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本堂横の霊水・閼伽水




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霊水・閼伽水の名札




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写真:鵜の瀬の清流




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「お水送り」の神事



その神宮寺本堂の手前に霊水の井戸・「閼伽水」というのが、風格のある家屋に護られて巌(いわお)と共にあった。 

閼伽水(あかのみず)は、仏教において仏前などに供養される水のことで、この「霊水の井戸」は若狭・神宮寺の「お水送り」の行事に利用するという。
この「お水送り」というのは、三月に奈良・東大寺の二月堂で行われる「お水取り」の行事に使われる聖なる水のことらしい・・?!。



「お水送り」の行事とは・・?、 

先ず、8世紀(752)年にインドの渡来僧・実忠和尚(じっちゅうおしょう)が「東大寺・二月堂」建立の際に、修二会(しゅにえ)という法要を実施したのが始まりといわれる。 

え・・ッ・!、東大寺は「お水取り」ではなかったの・・?、

この行法は東大寺の二月堂の本尊・十一面観音に向かって、僧侶たちが世の中の罪を一身に背負い天下泰平、五穀豊穣、万民快楽などを願って祈りを捧げ、代苦者、つまり一般の人々に代わって懺悔(さんげ)の苦行を勤めるものである。 

この法会(ほうえ)は、現在では3月1日より2週間にわたって行われているが、もとは旧暦の2月1日から行われていたので、二月に修する法会という意味をこめて「修二会」(しゅにえ)と呼ばれるようになった。

又、二月堂の名もこのことに由来している。
これら一連の行法を、俗に「お水取り」とよばれ、11人の僧侶・「練行衆」が選ばれ執り行われる。 
奈良期の開祀以来一度も途絶えることがなく、平成16年(2004)で1253回を数えることになるという。


これは実際に現在でも行われている行法であるが、これには伝承もある。 
昔、実忠和尚が、東大寺二月堂・修二会の行法中、全国の「万の神」である一萬七千余の神名を読み上げ参集を求められた所、若狭の国・「若狭彦神社」の遠敷明神(おにゅうみょうじん)だけが魚釣りに出かけていて遅刻してしまったという。 

諸神に其遅刻を咎められ、そのお詫びとして本尊に供える「香水」を若狭から送ると約束した。 そして、若狭神社において毎年3月2日、奈良東大寺・二月堂へ「お水送り」の儀式を行うことになったという。



若狭・神宮寺境内にある井戸から霊水を取り、遠敷川(おにゅうがわ)の「鵜の瀬」と呼ばれる場所から霊水を流す。 
こうして流された霊水は地下水脈を通って、奈良東大寺までたどり着くと信じられている。 

東大寺・二月堂の下にある「若狭井戸」は若狭の「鵜の瀬」から導かれたものとして、その名が付いている。 
遠敷川の上流部、神宮寺の更に奥の下根来というところに「鵜の瀬」という名所があり、夏になると子供がこの地で水と戯れるほどの清麗な流水がながれ、環境省の名水百選にも選ばれている。


現在行われている実際の「お水送りの」神事は、残雪が未だ見られる春まだ早き3月2日、先ず神宮寺本堂で「修二会」が営まれ、神宮寺・遠敷明神宮前では、弓打ち神事など祭事が行われる。 
夕刻からいよいよ「お水送り」の始まりで、神宮寺本堂の回廊から大松明を左右に振りかざす達陀(だったん)の行と言うのが行われ、大護摩(ごま)に火が焚かれる。 
白装束の僧侶らを先頭に、大護摩からもらいうけた火を手に、三千人ほどの松明行列が、2Km上流の鵜の瀬へ向かう。 

鵜の瀬で護摩が焚かれると、いよいよ送水神事の始まりで、白装束の住職が祝詞を読み上げ、竹筒からお香水(こうずい)を遠敷川へ注ぐ。 
そして、このお香水は10日かかって東大寺・二月堂の「若狭井」に届くとされており、よって奈良のお水取りは 3月12日に行われるのである。


過ぎる頃、東大寺・二月堂の「お水取り」は、3月12日の真夜中、すなわち13日の早朝、3時頃に行なわれる行事であることは周知である。 
この「若狭井戸」からの「お水取り」の行法は、一度も欠かされたことがない行法で、所謂、「不退の行法」であり、根本香水の入った水壷は、1200数年前からの香水を入れるための壺ということになる。 


行事は、朝早くより多くの信者や群衆で溢れ、後はテレビの映像でお馴染みのとおり、11本の松明が次々と上堂・二月堂の欄干に集まった群衆に火の粉を浴びせかける。 
天をも焦がす勢いの大松明に歓声だけが夜空に響く最も華やかな、水と炎の祭りの一大ページェントである。 
この東大寺・二月堂の「お水取り」は、春の到来を示す行事ともいわれ、春の季語にもなっている。


『 水取りや 氷の僧の 沓の音 』  芭蕉(野ざらし紀行)
(厳しい余寒に耐えて修二会の行を修する衆僧の、内陣を散華行道するすさまじいばかりの沓の音が、氷る夜の静寂の中にひときわ高く響きわたる。)


因みに小浜は、市内に点在する数多くの文化遺産から「海の正倉院」とか、或は「海の有る奈良」とも呼ばれているが、「お水送り」、「お水取り」という神事で、小浜と奈良は1200年の時を経ながら直接繋がっていたのである。


2017-11-04(Sat)

平成日本紀行(203) 小浜 「神宮寺と神仏習合」

「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」  <松尾芭蕉(奥の細道)>






平成日本紀行(203) 小浜 「神宮寺と神仏習合」   .





ところで、一般に神宮寺(じんぐうじ)とは、日本において神仏習合思想に基づいて神社を実質的に運営していた仏教寺院のことである。

日本に仏教が伝来した6世紀中頃の飛鳥時代には、当然、神道と仏教はまだ統合される事はなかったが、奈良から平安期になり仏教が一般にも浸透し始めると日本古来の宗教である神道との軋轢が生じながらも、神社の境内に寺院(神宮寺)や僧形の神像が造られるなど、神々への信仰の中に仏教が浸透していった。 

又、神々が仏法を守護する神として仏教の下に取り込まれる(宇佐八幡宮が大仏造立に積極的に協力するなど )という形にもなった。
そこから“神は仏の仮の姿”であるとする「神仏習合思想」が生まれ、寺院の中で仏の仮の姿である神(権現)を祀り、営まれるようになった。 


日本では千年以上のもの間、神と仏の複雑な混淆・折衷が続けられてきた結果、神仏両宗教という日本の歴史的風土に最も適合した形へと変化し、独自の習合文化を生み出した。 
即ち、 神仏習合のはじまりが神宮寺の出現であり、越前国・気比大社の神宮寺や8世紀初頭の若狭国・若狭神社の神宮寺の建立はその先駆けをなすものでもあった。


早い話が、神社の霊、御魂は過去に偉大な功績を残し、その後に、記念としてその者を奉るに過ぎず、時々、お祭りをしてやればそれで良かった。 
そこには、尊大ぶった教えや、思想、哲学などは無く、通常はただジッと鎮座してれば良かったのである。 

しかし、仏教というという新しい教えや、思想なるものがいきなり入り込んできて、どうじゃ・・!、こうじゃ・・!と人の心の中の説教をしはじめる。 
人々はおろか神社宮司から神社の御霊にまで影響するようになり、神々が「私は迷っている、ぜひ仏法を聞きたい」などとも言って、神というものが仏教に取り入れられ、「権現」、「明神」といった、神性の仏になってしまったのである。 


八幡大菩薩」などといって、神仏がごちゃごちゃになってしまったのがいい例で、これが所謂、神仏習合思想である。 
そして有力な神社にあっては、神宮寺が併設され、寺僧が神に対して仏事で仕え、お経を上げるのである。 

つまり、神職より、僧の方が位が上がってしまったのである。 
これを一般に「本地垂迹(ほんちすいじゃく)」と言われて、これはなんと、凡そ1000年以上もの間、明治の神仏分離政策まで続くのである。


別当寺(べっとうじ)とは、神仏習合が許されていた江戸時代以前に、神社に付属して置かれた寺のことで、神前読経など神社の祭祀を仏式で行う者を別当(社僧ともいう)と呼んだことから、別当の居る寺を別当寺と言った。 

神宮寺(じんぐうじ)、神護寺(じんごじ)、宮寺(ぐうじ、みやでら)なども同義である。
奈良時代には、伊勢・大神宮寺、越前・気比神宮寺、常陸・鹿島神宮寺、豊前・宇佐比売神宮寺、出雲大社別当寺・鰐淵寺など、日本の主要な神宮を取り込んでしまう。 
その後も、寺院は寺領を拡大し、鎌倉期においては読経・教義そっちのけで武僧集団まで造ってしまうのである。 

そして戦国期、新風を吹き込みながら台頭してきた織田信長が寺僧の武力化、政治介入など余りの傍若無人さに業を煮やし、比叡山の焼き討ちや一向宗徒の撃破などで、一時的には退けることになる。 
しかし、信長の偉業・・?は、明治維新の神仏分離、廃仏棄捨の其と比べれば、まだ可愛いものであった。


元来、仏教が日本に伝わって以来、その形は日本の神々を取り入れ、神仏習合という独特の宗教文化を形作った。 
近年、一般に日本人は無宗教であると言われるが、実際は神仏信仰は生活のすみずみにまで浸透していて、盆や正月の年中行事のほか、占い・祭礼・お守り札などの多様な民俗信仰の形を現代においても継承している。 

これは日本特有の折衷文化、融合文化であるが、しかし、世界的に見ると異宗教間や他宗教同士では融合することは有り得ず、歴史的にも宗教戦争など宗教界あげて、又は国を挙げて他宗教を排し、合い争うのが常道だった。
これらの折衷文化は、日本人特有の特異(得意)な特性かもしれない・・!!。


次回は、「神宮時・お水送り


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