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2017-11-17(Fri)

平成日本紀行(205) 敦賀 「松原と神宮」





「旅の終わり、そして本当の旅の終わりは・・?」






 平成日本紀行(205) 敦賀 「松原と神宮」   。






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気比の松原





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気比神宮大鳥居と本殿



敦賀半島の根元にあたる旗護山トンネルを抜けると、ここは既に敦賀である。
更に、若葉町の交差点を左に折れ、ぶち当たったところが巨大な松原と素敵で静かな海が広がっていた。 

砂の浜辺と壮大な松原は「気比の松原」と称した。 
広大な広さの中に17,000本にも及ぶ各種の松が並び、夏には美しい浜辺で海水浴も楽しめると言う。 
普通、日本における海岸の松林はクロマツが多いと言われるが、気比松原では赤松が8割以上も占め、日本の白砂青松100選にも指定されていて三保の松原、虹の松原と共に日本三大松原として知られる。 


1934年(昭和9年)に国の名勝に指定されている。 
リアス形のギザギザ若狭湾の西の端には、先ほど訪れた日本三景である松の名所「天橋立」があり、ここ、東の外れには、やはり松の名所、日本三大松原の「気比の松原」が在ったのは面白い・・!。



敦賀は、若狭湾に突き出た敦賀半島の影響で、季節風の強まる冬でも日本海沿岸の中では比較的穏やかとされる。  
古代より敦賀湾の静かな沿岸は天然の良港として栄え、又、近代以降は北陸と関西を結ぶ位置から鉄道や道路の要地ともなっている。 

かつては北九州や出雲と並んで古代朝鮮との交通の要衝でもあり、古書には・・、
『上古(じょうこ・むかしむかい、かなりの昔)における敦賀の港は三韓(古代朝鮮)交通の要地にして、三韓・任那人(みまな、にんな)等の多く此地に渡来し、敦賀付近の地に移住土着したる者少なからず。其族祖神を新羅神社として祭祀せるもの多く、信露貴神社亦共一に属す』とある。 


敦賀付近には新羅(シラギ)の宛字と思われる土地名や神社名が多いという。
例えば敦賀市の白木、神社名では信露貴彦(しろきひこ)神社・白城(しらき)神社・白鬚神社などがあるという。



気比の松原から東へ2km程度、そこは既に敦賀の市街地でもあり、その中心部に「気比神宮」が堂々と鎮座していた。 
参道入り口には、高さ11mの朱色の大鳥居(重要文化財)が威風を放っている。

この鳥居は、奈良・春日大社の大鳥居、安芸の宮島・厳島神社の海上鳥居と共に日本三大木造大鳥居の一つに数えられるという。

主祭神は、伊奢沙別命(イザサワケノミコト、別名 気比大神、笥飯大神)、他に、相祭神として仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、日本武尊(仲哀天皇の父)、素佐之男命、玉姫尊(神功皇后の妹)、武内宿禰(タケウチノスクネ)と錚々たる著名な神々が祭れれている。 

日本武尊の子とされる仲哀天皇と神功皇后は夫婦であり、その子が応神天皇で親・子の関係にあり、共に九州・宇佐八幡宮の主祭神でもある。

主祭神である「伊奢沙別命」の名義は不明であるが、神代より現在地に鎮座している地主神とされ、現在の天筒山(てずつさん・標高170mで金ヶ崎と連山をなし岬に突き出ている)に天下った神で、山域には神霊蹟もあるという。 

北陸道や日本海の海上交通の要地であるこの地において、古くから北陸道総鎮守として崇敬された神とされる。


次回、「気比神宮の祭神


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2017-11-16(Thu)

平成日本紀行(204) 三方 「三方五湖」

「長生きするものは多くを知る。 旅をしたものはそれ以上を知る。」 <アラブの諺>  






平成日本紀行(204) 三方 「三方五湖」   .




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写真(資料):三方五湖俯瞰



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三方五湖の1つ「久々子湖」



国道27号の丹後街道から三方町、三方五湖へ向かった。 

先刻から若狭湾の入り組んだ入り江を見慣れた来たため、五湖の一角を眺めても入り江と錯覚してしまうほどである。

先般、身内親戚等と北陸旅行した際に五湖を訪れているが、周辺には展望ロードがついていて五湖を見下ろすのに最適地といわれる「梅丈岳」という高所から若狭湾や五湖の自然景観を眺め、その眺望の良さを充分堪能したのを覚えている。
そんな訳でもないが、今回は一湖でも二湖でもいいから美景を眺めて済まそうと思った。


国道より小浜線の気山という駅の手前から左へ逸れて、立派な地方道をゆくと名前は知らないが一つの湖畔に達した。 
すぐ横が小高い園地になっていて湖面が一望できる、右はるか前方は大きく開けて、若狭湾の大洋を示しているとすれば、ここはあるいは「久々子湖」なのかも知れない。 

久々子と書いて「くくこ」と読みたいが、湖(こ)を合わせると「くくここ」となって何か妙な読み方になってしまう。 
実際は、「くぐしこ」と称するらしい。 

湖面は微風に揺られて微かに小波が立ち、遠くの周囲は緑の小山に囲まれ、実に茫洋として気持ちがいい。  

なにか頼りなげになってしまったが・・、    


『 若狭なる 三方の海の 浜清みい往き 
還らひ見れど 飽かぬかも
 』

と万葉集にも詠われている景勝地である。



五湖の関連性・・、

久々子湖や日向湖は直接外海とつながっていて、塩水混合湖、即ち、汽水湖になっているが、奥まった三湖も現在では人工的につながっているという。 

水月湖、菅湖は半汽水湖になり、最奥部の遠く離れた三方湖は完全淡水湖であるという。
久々子湖は昔は大きな若狭湾の入江であったが、東に流れる耳川によって海に運ばれた土砂が入江に堆積し、入口が殆ど塞がれてしまったことで久々子湖(潟)が誕生したという。 

対して他の湖は、地層の変化によってできた天然湖である。 
即ち、五つの湖は海水・汽水・淡水とそれぞれに違った水質や水深を持ち、また同じ汽水湖でも日本海に直接つながっている久々子湖と奥にある菅湖や三方湖、中間の水月湖ではそれぞれ海水と淡水の割合が違っている。 

そのため梅丈岳(三方五湖レインボーライン展望台)から見える景色は、五つの湖がそれぞれに違った青色をして見えるという。 
形成過程の異なる五つの湖は、濃さの違う青色に見えるので「五色の湖」とも呼ばれている。


三方湖、水月湖は、色鮮やかな新緑や紅葉を湖畔の水面に映し出し、自然と調和していて家並みや湖を囲む低い丘陵、湖畔沿いの梅林など、緑豊かで穏やかな風情に満ちている。 

又、隣町の美浜町にまたがる久々子湖は、単調な砂浜と松林の続く久々子海岸、松原海岸に接している美しい景勝地で、北端の岳山から日本海と三方五湖を眺めることがでる。 

外洋に直結している日向湖は、以外にも周囲には急峻な山をめぐらし、あたかもすり鉢の底に水をたたえたような形である。 

日向湖北岸には山と湖にはさまれた狭い湖岸の山の陰に、細く長い日向集落が軒を連ね、漁村風景の趣が感じられる。 

それぞれの特性を持つ三方五湖は、若狭の景勝地として国の指定の「若狭湾国定公園」の代表的な地域である。



車を進めながら気が付いたが、湖の湖畔には延々と梅ノ木が、しかも奥行き深く植栽されていた。
梅林は三方五湖周辺全体に植えられていて、スケールの大きさは五湖周辺だけで7万本もの白梅の木(白加賀という品種・・?)があるという。 


梅の植栽は江戸末期、旧西田村の豪農・助太夫家と平太夫家の庭に、偶々(たまたま)、梅の木を植えたことから始まったといわれる。 

この梅は、両家の名にちなんでそれぞれ「助太夫梅」や「平太夫梅」と呼ばれ、品種改良を経て「紅映(べにさし)」、「剣先(けんさき)」などの名を付け、福井の地に定着したという。


又、湖畔に割烹や小料理店の「ウナギ」と書いてある看板が多く目立つ。 

ウナギといえば浜名湖の養殖が有名であるが、同じ汽水湖の三方五湖も条件としては同様で、やはり地域の特産、名物なのであろう。 


しかし、昔から梅干しとウナギは食い合わせが悪いものと言われていたはずだが、相反するものが同じ場所にあるのはなんとも奇妙である。 
だが実際、食い合わせが悪いというのは迷信であり、梅干しもウナギも真夏を乗り切るためには欠かせない、スタミナ食でもある。


次回は「敦賀


2017-11-14(Tue)

平成日本紀行(203) 小浜 「お水送りとお水取り」

「寝てばかりいる賢人より、放浪する愚人」 






平成日本紀行(203) 小浜 「お水送りとお水取り」 .




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写真:神宮寺本堂




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本堂横の霊水・閼伽水




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霊水・閼伽水の名札




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写真:鵜の瀬の清流




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「お水送り」の神事



その神宮寺本堂の手前に霊水の井戸・「閼伽水」というのが、風格のある家屋に護られて巌(いわお)と共にあった。 

閼伽水(あかのみず)は、仏教において仏前などに供養される水のことで、この「霊水の井戸」は若狭・神宮寺の「お水送り」の行事に利用するという。
この「お水送り」というのは、三月に奈良・東大寺の二月堂で行われる「お水取り」の行事に使われる聖なる水のことらしい・・?!。



「お水送り」の行事とは・・?、 

先ず、8世紀(752)年にインドの渡来僧・実忠和尚(じっちゅうおしょう)が「東大寺・二月堂」建立の際に、修二会(しゅにえ)という法要を実施したのが始まりといわれる。 

え・・ッ・!、東大寺は「お水取り」ではなかったの・・?、

この行法は東大寺の二月堂の本尊・十一面観音に向かって、僧侶たちが世の中の罪を一身に背負い天下泰平、五穀豊穣、万民快楽などを願って祈りを捧げ、代苦者、つまり一般の人々に代わって懺悔(さんげ)の苦行を勤めるものである。 

この法会(ほうえ)は、現在では3月1日より2週間にわたって行われているが、もとは旧暦の2月1日から行われていたので、二月に修する法会という意味をこめて「修二会」(しゅにえ)と呼ばれるようになった。

又、二月堂の名もこのことに由来している。
これら一連の行法を、俗に「お水取り」とよばれ、11人の僧侶・「練行衆」が選ばれ執り行われる。 
奈良期の開祀以来一度も途絶えることがなく、平成16年(2004)で1253回を数えることになるという。


これは実際に現在でも行われている行法であるが、これには伝承もある。 
昔、実忠和尚が、東大寺二月堂・修二会の行法中、全国の「万の神」である一萬七千余の神名を読み上げ参集を求められた所、若狭の国・「若狭彦神社」の遠敷明神(おにゅうみょうじん)だけが魚釣りに出かけていて遅刻してしまったという。 

諸神に其遅刻を咎められ、そのお詫びとして本尊に供える「香水」を若狭から送ると約束した。 そして、若狭神社において毎年3月2日、奈良東大寺・二月堂へ「お水送り」の儀式を行うことになったという。



若狭・神宮寺境内にある井戸から霊水を取り、遠敷川(おにゅうがわ)の「鵜の瀬」と呼ばれる場所から霊水を流す。 
こうして流された霊水は地下水脈を通って、奈良東大寺までたどり着くと信じられている。 

東大寺・二月堂の下にある「若狭井戸」は若狭の「鵜の瀬」から導かれたものとして、その名が付いている。 
遠敷川の上流部、神宮寺の更に奥の下根来というところに「鵜の瀬」という名所があり、夏になると子供がこの地で水と戯れるほどの清麗な流水がながれ、環境省の名水百選にも選ばれている。


現在行われている実際の「お水送りの」神事は、残雪が未だ見られる春まだ早き3月2日、先ず神宮寺本堂で「修二会」が営まれ、神宮寺・遠敷明神宮前では、弓打ち神事など祭事が行われる。 
夕刻からいよいよ「お水送り」の始まりで、神宮寺本堂の回廊から大松明を左右に振りかざす達陀(だったん)の行と言うのが行われ、大護摩(ごま)に火が焚かれる。 
白装束の僧侶らを先頭に、大護摩からもらいうけた火を手に、三千人ほどの松明行列が、2Km上流の鵜の瀬へ向かう。 

鵜の瀬で護摩が焚かれると、いよいよ送水神事の始まりで、白装束の住職が祝詞を読み上げ、竹筒からお香水(こうずい)を遠敷川へ注ぐ。 
そして、このお香水は10日かかって東大寺・二月堂の「若狭井」に届くとされており、よって奈良のお水取りは 3月12日に行われるのである。


過ぎる頃、東大寺・二月堂の「お水取り」は、3月12日の真夜中、すなわち13日の早朝、3時頃に行なわれる行事であることは周知である。 
この「若狭井戸」からの「お水取り」の行法は、一度も欠かされたことがない行法で、所謂、「不退の行法」であり、根本香水の入った水壷は、1200数年前からの香水を入れるための壺ということになる。 


行事は、朝早くより多くの信者や群衆で溢れ、後はテレビの映像でお馴染みのとおり、11本の松明が次々と上堂・二月堂の欄干に集まった群衆に火の粉を浴びせかける。 
天をも焦がす勢いの大松明に歓声だけが夜空に響く最も華やかな、水と炎の祭りの一大ページェントである。 
この東大寺・二月堂の「お水取り」は、春の到来を示す行事ともいわれ、春の季語にもなっている。


『 水取りや 氷の僧の 沓の音 』  芭蕉(野ざらし紀行)
(厳しい余寒に耐えて修二会の行を修する衆僧の、内陣を散華行道するすさまじいばかりの沓の音が、氷る夜の静寂の中にひときわ高く響きわたる。)


因みに小浜は、市内に点在する数多くの文化遺産から「海の正倉院」とか、或は「海の有る奈良」とも呼ばれているが、「お水送り」、「お水取り」という神事で、小浜と奈良は1200年の時を経ながら直接繋がっていたのである。


2017-11-04(Sat)

平成日本紀行(203) 小浜 「神宮寺と神仏習合」

「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」  <松尾芭蕉(奥の細道)>






平成日本紀行(203) 小浜 「神宮寺と神仏習合」   .





ところで、一般に神宮寺(じんぐうじ)とは、日本において神仏習合思想に基づいて神社を実質的に運営していた仏教寺院のことである。

日本に仏教が伝来した6世紀中頃の飛鳥時代には、当然、神道と仏教はまだ統合される事はなかったが、奈良から平安期になり仏教が一般にも浸透し始めると日本古来の宗教である神道との軋轢が生じながらも、神社の境内に寺院(神宮寺)や僧形の神像が造られるなど、神々への信仰の中に仏教が浸透していった。 

又、神々が仏法を守護する神として仏教の下に取り込まれる(宇佐八幡宮が大仏造立に積極的に協力するなど )という形にもなった。
そこから“神は仏の仮の姿”であるとする「神仏習合思想」が生まれ、寺院の中で仏の仮の姿である神(権現)を祀り、営まれるようになった。 


日本では千年以上のもの間、神と仏の複雑な混淆・折衷が続けられてきた結果、神仏両宗教という日本の歴史的風土に最も適合した形へと変化し、独自の習合文化を生み出した。 
即ち、 神仏習合のはじまりが神宮寺の出現であり、越前国・気比大社の神宮寺や8世紀初頭の若狭国・若狭神社の神宮寺の建立はその先駆けをなすものでもあった。


早い話が、神社の霊、御魂は過去に偉大な功績を残し、その後に、記念としてその者を奉るに過ぎず、時々、お祭りをしてやればそれで良かった。 
そこには、尊大ぶった教えや、思想、哲学などは無く、通常はただジッと鎮座してれば良かったのである。 

しかし、仏教というという新しい教えや、思想なるものがいきなり入り込んできて、どうじゃ・・!、こうじゃ・・!と人の心の中の説教をしはじめる。 
人々はおろか神社宮司から神社の御霊にまで影響するようになり、神々が「私は迷っている、ぜひ仏法を聞きたい」などとも言って、神というものが仏教に取り入れられ、「権現」、「明神」といった、神性の仏になってしまったのである。 


八幡大菩薩」などといって、神仏がごちゃごちゃになってしまったのがいい例で、これが所謂、神仏習合思想である。 
そして有力な神社にあっては、神宮寺が併設され、寺僧が神に対して仏事で仕え、お経を上げるのである。 

つまり、神職より、僧の方が位が上がってしまったのである。 
これを一般に「本地垂迹(ほんちすいじゃく)」と言われて、これはなんと、凡そ1000年以上もの間、明治の神仏分離政策まで続くのである。


別当寺(べっとうじ)とは、神仏習合が許されていた江戸時代以前に、神社に付属して置かれた寺のことで、神前読経など神社の祭祀を仏式で行う者を別当(社僧ともいう)と呼んだことから、別当の居る寺を別当寺と言った。 

神宮寺(じんぐうじ)、神護寺(じんごじ)、宮寺(ぐうじ、みやでら)なども同義である。
奈良時代には、伊勢・大神宮寺、越前・気比神宮寺、常陸・鹿島神宮寺、豊前・宇佐比売神宮寺、出雲大社別当寺・鰐淵寺など、日本の主要な神宮を取り込んでしまう。 
その後も、寺院は寺領を拡大し、鎌倉期においては読経・教義そっちのけで武僧集団まで造ってしまうのである。 

そして戦国期、新風を吹き込みながら台頭してきた織田信長が寺僧の武力化、政治介入など余りの傍若無人さに業を煮やし、比叡山の焼き討ちや一向宗徒の撃破などで、一時的には退けることになる。 
しかし、信長の偉業・・?は、明治維新の神仏分離、廃仏棄捨の其と比べれば、まだ可愛いものであった。


元来、仏教が日本に伝わって以来、その形は日本の神々を取り入れ、神仏習合という独特の宗教文化を形作った。 
近年、一般に日本人は無宗教であると言われるが、実際は神仏信仰は生活のすみずみにまで浸透していて、盆や正月の年中行事のほか、占い・祭礼・お守り札などの多様な民俗信仰の形を現代においても継承している。 

これは日本特有の折衷文化、融合文化であるが、しかし、世界的に見ると異宗教間や他宗教同士では融合することは有り得ず、歴史的にも宗教戦争など宗教界あげて、又は国を挙げて他宗教を排し、合い争うのが常道だった。
これらの折衷文化は、日本人特有の特異(得意)な特性かもしれない・・!!。


次回は、「神宮時・お水送り


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