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2018-03-25(Sun)

平成日本紀行(222)氷見 「海鮮館」

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平成日本紀行(222)氷見 「海鮮館」 .



 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-233.jpg
氷見の港に建つ「海鮮館」




七尾市から国道160号線を富山湾に抜けると波打ち際を延々と走るようになる。  
この氷見市に至るまでの海岸線は素晴しく透明感があり、目を見張る美しさである。 
特に小境海岸の白砂が鮮やかで、海の色香もますます冴えてくる。 
対岸には、未だ白く雪を戴いたアルプスの山並みが見え、富山湾の海の青と対比して絵のようである。 
特に富山湾の海の色は、明るく濃い青色で水彩画の水色を何度も塗り重ねて濃く塗ったようで独特のものがある。 
このことは天気や海底の状態や様々な要因があるのだろうが、もしかするとアルプスから流れ込む清流水の所為(せい)かもしれない。
そして、いつの間にか石川県から富山県に到っていた。


富山県(富山市)出身の「田中耕一」氏がノーベル化学賞を受賞したのは2002年12月で、若干43歳の時であった。 
島津製作所の社員であり、サラリーマンのノーベル賞受賞として日本国内で話題となったのが記憶に新しい。 
氏は、「コツコツ続ける堅実さと、粘り強さは富山の地(ぢ)のおかげ」といっている。 

隣の石川県が百万石の豊かな地であったのに対し、富山は加賀藩の支藩にすぎず、僅か十万石の貧国で、衣は麻か木綿、食は雑穀、酒の代わりに茶を飲むなど倹約を勧め、贅沢を戒めた。田中氏も言っているように、この様な堅実な県民性がノーベル賞という偉大な賞を戴いた一つの要因であろうと想像できるが・・?、無論、本人の人並みはずれた精神があったことは論をまたない。


富山県は近年、耕作地における水田比率は高く、勿論、政府が勧める減反政策に対して、その休耕地比率が極めて少ないともされる。 
中部の砺波地区においては、明治時代から続く異彩のチューリップ栽培が盛んであり、特に、富山湾の漁業の恩恵は国内でも最大級のものがある。 
その漁業の中心が「氷見」であり、美味しい魚が四季を通じて各種の漁が獲れる。 それには独特の理由が有ったのだ・・!。 

3000m級の険しい立山連峰とそれに連なる山並みからの雪解け水や雨水が、森林を通って河川に流れ込む。 
河川は森林の有機質がプランクトンを培養し、富山湾は絶好の漁場環境なのである。 
更に、富山湾の海底は、水深1000mも深く複雑な地形をなしていて、一気に湾底まで落ち込む斜面を海底谷、所謂、あいがめ(藍瓶)とか、「ふけ」と呼んでいる。 

この谷底に向かって大陸棚からプランクトンを培養する有機質が流れ、格好の漁場となるのである。 
富山湾の中でも氷見沖は最も大陸棚が発達しているため、この「ふけぎわ」が多く存在し、古くから漁業が盛んである。 
今も40数ヶ所もの定置網が設置されており、富山湾は全国的にも好漁場で「天然のいけす」とも呼ばれ、県内随一の漁獲量を誇っていて、その魚の美味しさも一味異なるという。



国道から氷見市内に入って、そのまま海岸通りを行くと洒落た園地が在った。 
港はモダンな造りで、観光船なども停泊している。 
近くに「海鮮館」なる巨大な食のデパートがあり、さすがに魚色豊かな氷見ならではである。 
因みに、氷見の魚のカレンダーは、春(3~5月)はマイワシ、サヨリ、クロダイ、夏(6~8月)はマアジ、トビウオ、クロマグロ、カジキ、マダイ、秋(9~11月)はカマス、シイラ、アオリイカ、ワタリガニ、冬(12~2月)はブリ、カワハギ、スルメイカ、マダラ、フグなどである。 他にも四季を通じて150種類以上もの魚が水揚げされ、初夏の「マグロ」、冬の「寒ブリ」、そして「氷見いわし」は広辞苑にも掲載されるほど有名であるとか。


次回、「雨晴海岸





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2018-03-21(Wed)

平成日本紀行(221)七尾 「七尾城」




平成日本紀行(221)七尾 「七尾城」 .




http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-231.jpg
草生した七尾城址(本丸への上り口)




能登半島は、無理していうなら鮫の顔に似ている・・!、 
鮫が口を開いて能登島をガブリと銜(くわえる)え込んでいて、その口元から下顎に当たるのが「七尾市」であり、喉仏に相当するのが「和倉温泉」の地域であろう。 
その七尾市へ向った。

七尾市は能登半島の中程に位置し、平成16年(2004年)10月、旧七尾市、田鶴浜町、中島町、能登島町の1市3町が合併し、新生七尾市として新しい一歩を踏み出した。 
この地域は、天然の良港として栄えてきた七尾港を海の玄関口とし、古代より能登の政治・経済・文化の中心地として発展を続けてきた。


鮫の頭部に似た、能登国は小国である。 

律令制によって養老年間、越前国から分立、更に、越中の国との併合と分離の変遷を繰り返している。 
その、越中国に併合されていた時期に越中国守であった「大伴家持」が巡視に訪れた事は先に記したが、この奈良期、能登国守として実際に政務を執ったのが「源順」(みなもとのしたごう)であった。 

源順は嵯峨天皇の直系で平安初期の学者、歌人と若い頃から博学で有名で、20代で辞典『和名類聚抄』を編纂している。 
三十六歌仙の一人にも数えられ、大変な才人として知られており、源順の和歌を集めた私家集『源順集』もある。 

尤も、源順が能登守に赴任するのは七十歳の老翁であったという。 
従って、国政としての真新しい実績はあまり無く、博学歌人としても能登においては名歌は残していないという。 

能登の人は、源順については余り記憶の中に無いという。 
又、実際に政務を執ったとされる国庁の跡は未だ発掘されず、源順が編纂した和名抄には「能登国国府在能登郡」とあるので、現在の七尾市古府の総社の近くか、七尾市府中町の辺りとも云われてる。   


次に、西方、高さ300mの山中に「七尾城址」がある。 
室町中期、能登畠山氏(12世紀、源頼朝の重臣・畠山重忠の分家筋)の初代当主・畠山満慶(はたけやま みつのり)が城山に城を築いたのが始まりといわれる。 
城は、尾根を平に削って曲輪(重臣達の居城)を連ねる典型的な山城の縄張りで、長屋敷・本の丸・二の丸・三の丸など尾根筋に並び、その堅固さは日本の五大山城(謙信の越後・春日山城もその1つ)とも言われた。  
しかし戦国期、さすがの堅城も上杉謙信の侵攻により開城させらる。上杉謙信は七尾城を攻め滅ぼした後、本丸から眺める七尾湾のあまりの素晴らしさに「九月十三夜」という詩を読んだといわれる。

九月十三夜』  陣中作 上杉謙信(1530-1578)

霜軍営満秋気清
数行過雁月三更
越山併得能州景
遮莫家郷遠征憶


1行:見渡す限り真っ白な霜が、我が陣営いっぱいに満ちて、秋の気配がすがすがしい。
2行:幾列もの雁の群れが空を飛んで行き、真夜中の月が白々と照り映えている。
3行:越後、越中の山々の他に、手中にした能州を併せたこの光景はまことに素晴らしい。
4行:故郷では遠征のことを案じていることだろうが、ままよ、今夜はこの美しい十三夜の月を静かに賞でよう。


その後、謙信から前田利家と城主を変えたが、戦国の世も終わりを遂げつつあるとみた利家は、山城を不便として七尾城を廃城にし、行政府は平地に造った「小丸山城」に移したという。

七尾城の本丸などに見られる石垣は、造成技術が未熟な頃の戦国初期(室町期)に造られたものして貴重なものとされ、又、七尾城は山全体が城とも言える複合城で、その範囲はかなり広く、長期の篭城にも耐えうる性格を持っていたという。

七尾城跡は現在、七尾市によって保存整備計画が進められていて、現在の城跡範囲の追加、拡大と城下町の遺構の範囲までの史跡指定を進めている。 
また、七尾城下町の町並、通路の復元なども視野にいれているという。 
ただ現時点では未だ計画段階に過ぎず、本格的な保存・調査・整備はまだ先であるという。


次回は、富山県・「氷見





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2018-03-21(Wed)

平成日本紀行(221)七尾 「和倉温泉」





  平成日本紀行(221)七尾 「和倉温泉」   .






http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-229.jpg
最後の宿「フローイント和倉」



http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-230.jpg
部屋にて・・、(小生の素顔です)





能登島大橋を渡った先の、和倉温泉東の交差点を右に行った先に、地方公務員の保養所になっている「フローイント和倉」があった。 
一見、五階建ての地味な建物であるが、玄関を入ると真赤な絨毯が敷かれた広ーい豪華なロビーは一流ホテルを思わせる。 
案内された最上階の和室はゆったりとした新装の施しがしてあり、窓の向こうには能登南湾から能登島が一望できる展望絶佳な部屋だった。

早速、湯に浸かる・・、
温泉浴場は一階に設置してあり、大窓で風流な中庭の和庭を見ながらの大浴場は満足である。
露天風呂がないのが残念であるが、折角だから、中庭の一角にでも掘っておけば、一段と風流さを味わえるのにと思ったが・・?。 
湯質は海辺の温泉のせいか塩分が多く含まれて、やや塩味がするが、効能豊かそうなサッパリした湯である。 
風呂上りで寛いでいるとやがて食事の時間になり、部屋に御膳が運ばれてきた。 
ビールは部屋の冷蔵庫から取り出し、精魂の入った地元の食材、海の幸とともに戴き、更に地の酒を流し込む。 
至福の時である。 

それにしても、こちらの会席風の料理は超一級品であり、実感を込めて礼を言っておいた。 旨い酒に、美味い肴で今夜も気持ちよく酔えた。

思えば、長道中の内の今日は最後の夜になるだろう。
公営の宿舎とはいいながら、一流ホテル以上の隅々までの気使いを実感して大満足である。
今日の旅路の纏めも、そこそこに、もう一ッ風呂浴びて心地よい夢路を辿った。


目覚めて、更に、朝湯に浸かる。 
部分覚醒が朝の湯浴みによって全身覚醒に至るのである。 
あらためて屋上ラウンジより外を眺めると、海辺に沿って高層のホテル群が林立していて、その奥のほうに一段と巨大なのが、和倉温泉でも特に有名な「加賀屋」だという。 

加賀屋は、旅行雑誌、その他に取り上げられる名旅館であり、全国的にも評判の旅館で、その豪華さ、満足度の点で日本を代表できる旅館だという。 
プロが選ぶ日本のホテル旅館100選」では、26年連続で加賀屋が一位となっているという。 日本一の「加賀屋」の施設、建物は七尾湾に突き出るようにして建っている。 
温泉が海から湧き出るように。


実は和倉の温泉は、時代を遡ること凡そ1200年も前に、沖合60メートルの海中から湧き出したという・・!。 
湯の湧き出づる浦」、湯涌浦(ゆわくうら)が発見されたが、実際に大衆、民衆が温泉として利用したのは江戸期に近い後の世のことであった。 
江戸期には加賀藩の統制を受けつつ、湯が涌く「涌浦村」は加賀前田家の命により今日の「和倉村」と名を改めたとされる。 

明治初期の廃藩置県の際、村人により和倉村の“湯権”は官地ではなく村の共有地として認められ、ともなって「湯の島」であったのが埋め立てられて陸続きとなった。 
湯が発見され、湯島ができ、船着場や橋ができ、そして埋め立てて陸続きになったのは、或いは、今の「加賀屋」辺りではないだろうか・・?。 
加賀屋は今の和倉温泉の草分けといわれ、創業は明治中期の頃という。


和倉温泉は明治初期、ドイツで開催された万国鉱泉博覧会で三等賞を受賞したと記録にあるという。戦後になって交通アクセスの向上に伴い、温泉街も大規模化し、高度経済成長期になって能登方面にも観光ブームが沸き起こり、その後北陸本線の特急が直行運転され、急速に宿泊客が増加した。 

一時は同じ石川県内の加賀温泉郷や福井の芦原温泉と同じく歓楽要素を持っていたが、今日その傾向は薄く、加賀屋旅館の影響もあって各旅館とも高級指向を全面に打ち出し、今では山代温泉を抜いて、県内温泉地では宿泊客トップを誇るという。 

大きな旅館が林立する和倉温泉の街中に、唯一の共同浴場「総湯」がある。 
「竜宮城」という豪華な浴場もあり、その他、お楽しみのセンター形式の浴槽もある。 
温泉はナトリウム・カルシウム塩化物泉(高張性中性高温泉)で神経痛、筋肉痛、関節痛、特に慢性皮膚病、虚弱体質、慢性婦人病等々に効くという。 
飲用も可能だというがチョッとしょっぱいのがのが難・・。


江戸期、大阪に居ながら和倉温泉の湯に入ることが出来た・・? 
この頃の温泉は、現在のように湯につかって、飲んで食べて一泊する楽しみではなく、農作業などで疲れた体を癒す所謂湯治が主流であり、多くの病に効くことが自慢となっていた。 
涌浦(和倉)の温泉は、海中の小さな島である湯島から出ていて、湯治用の建物建設は不可であり、そこで、七尾の商人やお偉いさんは和倉の湯を船で運び、七尾の旅館の風呂に入れて湯治がわりにしたという。 
この風習が各地に広がり、金沢や富山や大坂までも、湯が樽に詰められて船で運ばれるようになったとされる。 
商人(あきんど)の町、大坂の「和倉の湯」は大変人気があり、温泉好きな人々を居ながらにして楽しませたといわれる。 

現在、関西方面の利用客が多いのは、この「樽湯」の伝承が大阪地域には行き渡っているからだろうとも云われる。
和倉温泉駅まで電化されていることもあって、関西の大阪・京都方面、名古屋、新潟(越後湯沢)方面からの直通特急が其々和倉温泉まで運転されている。 
能登の観光と併せて、半島唯一の名温泉・和倉温泉は今でも幅広く利用され、人気がある。


次回、再び「七尾




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2018-03-20(Tue)

平成日本紀行(221)七尾 「能登島」

.「漂泊の旅から、学問が生まれる」   





平成日本紀行(221)七尾 「能登島」 .



 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-227.jpg
能登島に架かる農道橋




http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-228c.jpg
能登島大橋






能登半島を巡って、穴水町に戻ってきた・・!、 
能登の内浦を更に入りこんだ七尾湾の湾口に能登島という巨大な島が浮かび、波消しブロックを置いたような海域になっている。 この島が七尾湾を北湾、西湾、南湾と三つの湾に分断していて、従って海面は鏡面の様に凪いでいる。 

そんな北湾の北に穴水港があり、周辺海域は更に複雑な入り江を成している。 
海域の穴水は古来より「海の幸」が豊富なところであり、牡蠣、サザエ、白魚(いさざ)などなど、これらの豊富な食材をキャンペーンを兼ねて、四季折々の「食材祭り」というのがあるらしい。 

穴水ではこれを「まいもん祭り」と称し、「まいもん」とは、能登弁で「美味いもの(うまいもの)」という意味だそうで、「穴水まいもんまつり」は、春夏秋冬四季折々の旬の能登の味覚(=まいもん)をお客様に提供しながら、自らも豊かな食材を楽しもうという、何とも羨ましい祭りなのである。 

春の陣、夏の陣、秋の陣、冬の陣の各期間に分け、春はいさざ祭り、夏はさざえ祭り、秋は牛祭り、そして、冬は牡蠣祭りと実に多彩である。 これらは役所自体に「穴水まいもんまつり実行委員会」という組織があって、各々音頭をとって実施しているらしい。 
いやはや、羨ましくも、結構なことです。


七尾湾の鏡のような美景を左にながめながら、七尾線が並行して走る国道249を南下する。
目の前に、七尾湾を塞ぐように能登島の大島が迫ってくる。 
島によって隔てられた三方の海を大口瀬戸(湾・北側入り口)によって穴水町と、三ヶ口瀬戸、屏風瀬戸及び小口瀬戸(湾・南側入り口)によって七尾市の本州側と対している。 
その三ヶ口瀬戸に架かる中能登農道橋(ツインブリッジのと)を渡る。 
「農道橋」という地味な名称であるが、何の々々、最近開通した実に立派な吊橋である。 
袂(たもと)に園地が有ったので、一服しながらカメラに収めた。


次に、能登島の西岸を進みながら、次に本陸へ戻るため能登島大橋をめざす。 
能登島は二つの橋が架かる以前は湾内の本土の眼前に在りながら、陸の孤島ともいわれてきた・・?、
尤も、孤島ではあるけれど古来より人が住み着き、遺跡によれば縄文期の生活跡が見られるという。 
一時期は伊勢神宮に「食」を納める御厨(みくりや)の栄誉も授かっているらしい。 そうかと思えば、江戸期には加賀藩の流刑地に指定されていて、主に政治犯(思想犯)がこの時代百数十人が流されてきたという。 

その閨(ねや)地区に「閨観音堂」(ねやかんのんどう).という古堂があり、小さな観音堂とほぼ完全な五輪塔が30基、他に10数基の欠けた碑と珠洲焼の骨壷の破片が散在している。 年代は定かでないが江戸期の流人達がこの島で骨を埋め、その祀りの古跡ではないだろうかと想像されているが・・?。

現在、能登島は能登島大橋とツインブリッジのとの二つの橋が揃い、島は観光地化していて水族館やガラス美術館、ゴルフ場、キャンプ場等が人々を寄せている。 


島から渡り返す能登島大橋は、吊り橋構造の農道橋と違って橋脚構造のオープンなコンクリートの橋である。 
橋の中ほどから既に、七尾の「和倉温泉」の賑やかそうな、ホテルや旅館の家並が見えている。 

1kmの橋程を終えれば、ここは既に和倉の温泉地であった。 
十字路を右手に行った、程なくして五階建ての本日の宿舎「フローイント和倉」が在った。 
たぶん、今回この旅程の最後の宿泊地になるであろう・・!。


次回は、「和倉温泉





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2018-03-18(Sun)

平成日本紀行(220)能都 「石仏山祭」






平成日本紀行(220)能都 「石仏山祭」 .




 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-226.jpg
写真(資料):3月の残雪の中の「石仏山祭」




国道249は能都町の宇出津(うしつ)辺りから再び海岸に出た。 
能都町は現在、「能登町」に町名が変更になっているようで、能都町、内陸部の柳田村、内浦町とが平成17年3月1日付けで合併し、「能登町」が誕生している。 

能都という地名も意味ありげだが、能登町もこれはこれで結構な町名である。 
北陸の地、能登地方は「お祭り・行事」が多いことは前に記したが、ご多分に漏れず、こちらの町も実に多くの祭があり、ザッと数えても15~16もの大小の祭事が行われている。 

中でも気になったのが「石仏山祭」という祭事・神事である。
穴水町との町界近く、山田川を遡った辺りに柿生神道地区というのがあり、その名が示すとおりの古代神道形式の祭りがあるという。 

近くにはコンモリしたその名も石仏山(潔界山)という山があり、そこに立つ巨石を信仰対象としたお祭で、例年3月1日、2日にかけ例祭が行われるという。 

「田の神」、「山の神」として信仰され、3月1日の宵祭りには祭神が田の神として里へ下り、豊作の予告と必要なエネルギーを人々に与えると伝えられる。 

翌日は、打ち鳴らす太鼓を合図に人々は石仏山へ入り、急な坂道を上ると中腹に前立ちという高さ3m、幅60cmの巨石があり、左右に小さな石が並んでいて、これは大己貴命(大国主)の霊代とされていて、ここが祭場となる。  

特徴的なのが境内において古来社殿を設けたことがなく、賽銭を入れるところもないとする。

それは伝説によると、この神様は特に「自然な清浄」を好み「人工」が嫌いとされ、過去数回社殿を造営したが一夜で潰れたしまったという。 
そのため社殿を設けなくなったと言われている。


石仏山は、潔界山とも言われ今日までも珍しく女人禁制の霊山として、女子14才に達すると境内に入れない不文率がある。 
祭式は、古代の祭祀様式そのままであり、巨石をご神体として祀る石神信仰に基づく古い形態の祀りで、原始神道を今に伝える巨石崇拝の神事なのである。


ところで、この地区よりやや離れてはいるが、九十九湾の近くに「真脇」という地域がある。
ここは縄文期の遺跡が大量に発掘された処であり、遺跡は縄文前期から晩期のものまで途切れることなく遺物・遺構が出土しているという。 

凡そ、4000年もの間この地で人々が継続的に生活していたとされ、遺跡の中でも列柱といわれる天と地をつなぐ縄文のシンボルの様な木柱群などがあり、しかも整然と並ぶその様は時空を超えて我々に何かを語っているという。

現在は公園化され憩いの場所になっているが、いずれにしても能登の地域には縄文期の頃から多くの人が多数住み着いていたことが伺え、当然、石仏山の祭事との関連も有るものとしている。 
これは驚くべき事で縄文時代当時の様式の伝統文化を、そっくり、そのまま現代に継承しているのである。



昨今、祭りブームとやらで、祭りの内容も時代と共に華美になり、賑やかになり、派手になって、祭りの果てには傷害や死亡事件まで発生しているところもある。 
それは祭りの本来の意義をすでに逸脱してしまっていて、一種、催事としても見受けられる。 
又、最近では行政主導といわれる「まつり」もあり、住民に連帯感を持たせるとか、大勢の観光客を誘致し、商品の宣伝や観光だけが目的であったりする。 
こなると本来の祭りではなく一種のイベントであろう。 

これはこれで良いと思うが、このように俗化された「まつり」をヨソに、古式に則るというか、縄文時代当時の様式、伝統をそのまま伝承している祭事には改めて驚愕致すのである。 

能登は、これ一つとっても素晴らしいところである。 
イヤ恐れ入りました・・!!。


尚、同公園には「縄文記念館」が併設され、開館したのがH9年9月19日であった。 
これは平成8年9月19日に天皇・皇后両陛下が能都町に、そして真脇遺跡にお越しになられた記念として、その翌年の同日にオープンしたという。 

九十九湾を意識して九の字を並べた訳であろうが・・?、
これはこれで実に結構なことである。


次回は、「能登島




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2018-03-17(Sat)

平成日本紀行(219)内浦 「九十九湾」





平成日本紀行(219)内浦 「九十九湾」 . 




 http://www.notocho.jp/images/feature/tsukumowan/photo02.jpg
長閑な九十九湾



九十九湾(つくもわん)は、内浦のほぼ中央に位置する代表的リアス式海岸の小湾で、湾の中にも更に数多くの入江があるという意味で九十九湾という名があるという。 
湾の真ん中には弁財天を祭る蓬莱島が浮かび、日本百景の一つにも数えられる優美な景勝地として知られる。


ところで九十九というと、日本周遊を巡りつつある小生にとって、直に房総半島の九十九里浜や長崎・佐世保の九十九島を連想する。 

他に九十九の名が付く地域名や固有の名称が沢山あるようで、橋、曲、峠、山、森、沢、谷、塚・・等、「九十九」とは、概して「たくさんある」とか「大変長い」などを意味するという。 

又、中国では数にはそれぞれ意味があるとされ、九は最高の数を表すともいわれる。 九は漢数字で「久(または玖)」と書き、これは永久、つまり無限大を意味する。 
又、 「九十九」を「つくも」と読むのは・・?、「つくも‐がみ」と言うように、九十九髪、江浦草髪と書き、老女の白髪を云うらしく、伊勢物語の歌に・・、


『  百年(モモトセ)に 一とせ足らぬ 九十九髪(ツクモガミ)
我を恋ふらし おもかげに見ゆ
 』

から、ツクモはツグモモ(次百)の約で、百に満たず九十九の意と見ている。 
それを「百」の字に1画足りない「白」の字とし、白髪にたとえたともいう。 

関連して白里、白浜、白潟などは広いとか長いとか大きいを意味し、そして、「白寿」の祝いは「百ひく一」つまり「九十九」の祝いであり、何れも、九十九の意味を示しているものである。
こちらの九十九湾は、これらの意味合いで何を表したものか・・?、
リアス式・溺れ谷の海岸線の総延長でも表したものか・・?、一説だと小さな入江の数が九十九とも云われるが・・?、定かでないがマーいいか・・!。



ここで、九十九に因んでチョットしたクイズ式・数字遊びを・・、
江戸期に詠まれた短歌ですが何と読みますか・・?(答えは頁末)

『 三十十百九 三千百三三四八 一八二 
四五十二四六 四百八三千七六
 』・・??、

次に見覚えのあるこの読みは・・?、(読み易く覚えやすいよ)

3.141592653589793238462643383279・・』・・?


関係するかどうか疑問だが、九の付く数字遊びに中国発祥の「麻雀」がある。 
4人のプレイヤーがテーブルを囲み、1から九までの同種4組のもの3種類と字牌を合わせた136枚の牌(麻雀用品のことを牌・はい、ぱい という)をやり取りして「役を揃えることを数回行い、得点を重ねてゆくゲームで、勝敗はゲーム終了時における得点の多寡と順位で決定される。

小生も若かりし頃よく遊んだが、未だ「九蓮宝燈」(ちゅーれんぽーとー)は達成していない。 
九蓮宝燈は一と九がそれぞれ3つ、二~八まで1つずつが入っていて、つまり、一一一 二三四五六七八 九九九、の形で、麻雀は基本的には14枚で上がりなので、これで、あとの1枚は一~九まで何でもOKで上がりなのである。 

九面待ちはダブル役満だよ・・!!、 
この上がり方は、全ての役上がりで最も美しい上がり方だといわれる・・!。 
エーッ・・、麻雀知らないって・・?、こりゃまた失礼しました・・!!。


数字遊びの答、覚えておいて・・!。
里遠く 道も寂しや 一つ家に 夜毎に白く 霜や満ちなむ
産医師 異国に向こう 産後厄(やく)なく 産婦御社(みやしろ)に 虫散々闇に鳴く


次回は、「能都・石仏山祭




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2018-03-16(Fri)

平成日本紀行(218)珠洲 「伝説とロマンの里」

.「東へ行った、西にも行った、やはり、わが家が一番だった」  







平成日本紀行(218)珠洲 「伝説とロマンの里」 .






http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-225.jpg
資料:須須神社の日本一のキリコ




長手の岬からは所謂、能登半島の内側に入り込む内浦湾(富山湾)である。
間もなく「蛸島」という小さな町に入った。 

辿り着いた「のと鉄道」の終点の蛸島駅は、ボロボロで落書きだらけのコンクリートの駅だった。 
田畑に面して細く延びてきたレールが途中で途切れていて、ホームから周囲を見渡せば海側の高台に「弁天公園」という展望台も見られた。 
内浦湾に沿って穴水駅から蛸島までは、直前まで「のと鉄道の七尾線」が結んでいた。 

だが2005年3月限りで全線が廃止されている。
廃線に向けた動きが出てきた頃、存続を求める沿線住民らで市民団体が結成され、激しい廃止反対運動が展開されたらしく、廃線が決定した後も復活に向けて現在も活動中であるという。
しかし、廃止後の代替バスの運行状況も芳しくなく、二社の路線とも利用者が少なく、難渋しているようである。


珠洲の市街に来たようである。 
市街といってもビルが林立するような喧騒の地ではなく、シットリとした緑豊かな、落着いた雰囲気の町並みである。 
しかし、珠洲の町は昔は違ったようだ。 

一説には古代能登文化は此の半島突端の珠洲地区から発祥したとも云われる。  
往時から出雲、佐渡、蝦夷と並ぶ海洋交通の主要地として、弥生期には出雲方面から鉄器文化を導入し、開田の営みも自ら促進していたことが伺えるとされる。

万葉集に・・、

『 珠洲の海に 朝びらきして 漕ぎくれば 
長浜のうらに 月照りにけり
 』


大伴家持(奈良後期の天平時代)が能登国主を兼任した折、当地に来て珠洲湾の景勝を詠んだ有名な句である。 


珠洲市の「スズ」は、須須神社からの由来とされ、祭神が美穂須須見命(ミホ・ススミノミコト)で、そこから地名をとったと考えられてる。 

ミホ=ミ(海とか神霊)、ホ(抜きん出て秀でている様)を指し、ススミ=烽(煙や火ののろしをあげる所)と解釈でき、「珠洲の地は、大海に突き出た地であり、海難等の海を守るため須須神社を奉り、この社にて狼煙を揚げて航海の安全を見守った」とする。 

その他、アイヌ語を語源とするという説も根強く、能登地方にはアイヌ語を語源とする地名が散見されると言われているが、能登はノット(突き出たところ)、珠洲はスズ(先っぽ)で同義語でもある。


珠洲は、日本海へと伸びる能登半島の最先端に位置し、三方を海に囲まれた「伝説とロマンの里」とされる。 
世界に存在する全ての造成物は海に生まれ、そしてやがて土に還る。 

そんな神々の創造を強く感じさせる大自然がそこにあり、珠洲市は神々を祀る、祭りの宝庫ともいわれる。 
祭りの主役はやはり「キリコ」に関係が多いらしく、飯田地区は「飯田燈籠山祭り」(7月20日・21日)、日本一の大提灯を囲む「ちょんがりまつり」(8月6日)、「宝立七夕キリコまつり」(宝立町・8月7日)、日本一の大キリコが登場する「寺家の秋祭り」(三崎町寺家・10月第1土曜日)、「奴振り」(正院町正院:9月15日)、「早船狂言」(蛸島町・9月11日:県指定無形民俗文化財)、と珠洲市内だけでもこれだけある。 

能登地方(口能登、中能登、奥能登)においても、春夏秋冬合わせると、何と100以上もの祭り行事が存在するという。 
これはもう、この地方は年柄年中お祭りのようなものあり、能登地方の豊かな生活基盤、深い歴史観が存在すことが見て取れる。


鵜飼地区から内陸へ入ってしまったが、この先の海岸沖に見附島というのがあり、別名「軍艦島」ともいう。 
30mの高さの船縁(ふなべり)をもつ巨大戦艦が、こちらに向ってやって来るようであるという。

武骨な厳(いかめしい)しい名称の軍艦島に対して、こちらの海岸線は何ともロマンチックな「恋路海岸」と称している。 
地名に恋路とつけるあたりは、シャイな能登人の感覚が知れるが、確か伊豆半島のアッチの方にも「恋人岬」と言う地名が在ったようだ。

七尾線が走っていた頃は「恋路」(こいじ)という、艶かしい駅名も在ったらしく、若い女性には人気の的だったという。 
思えば、北海道の内陸地方にも「愛国駅」とか「幸福駅」があって、全国的なブームを巻き起こして有名になった駅があったが、こちらも当の昔に廃止になっている。 
ただ、今だに各駅前売店ではキップが販売されているという。 
こちらの「恋路駅」はどうなんだろうか・・?。


この先、国道249号線の沿岸に「九十九湾」という景勝地がある。 
能登の海というと半島を東西に分けた海、外浦と内浦に囲まれていることは言をまたないが、この様相たるや全く異なるのである。 
冬の季節風がモロに吹きつける外海、能登金剛に代表される荒々しい景観が売りであるが、内浦は恋路海岸の如く穏やかで、優しいイメージの様である。 

その内浦のほぼ中央に位置する九十九湾(つくもわん)は、更に深く入り組んだ入江となっていて、湾の真ん中には弁財天を祭る蓬莱島が浮かび、日本百景の一つにも数えられる優美な景勝地として知られる。


次回、「九十九湾

2018-03-07(Wed)

平成日本紀行(218)珠洲 「須須神社」





平成日本紀行(218)珠洲 「須須神社」 . 





 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-223.jpg
海に向かって立つ須須(スズ)神社の大鳥居と燈篭




 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-224.jpg
資料:「蝉折の笛」と弁慶の守刀






狼煙(のろし)と須須神社の関わり・・、

内陸伝いの山道から、一転海岸に出たところ寺屋地区に「須須神社」があった。
鄙びた部落の様相とは不釣合いな程の五段の台座に一対の石灯篭を従えて、立派な鳥居が海岸道路沿いに立っている。 日本海の大洋に向けて真東に向いていて、時期、時刻によっては鳥居の正面に太陽を迎えるが如く輝くという。 
参道の奥には二の鳥居、更にこの奥に三の鳥居が控えていて、そこからは鬱蒼としてやや苔生した感じの奥参道もあり、社殿はその奥に鎮座しているという。 
無論、この海岸からその姿をここからは拝見できない。
1万坪にもおよぶ境内の社叢は、スダジイを主とする照葉樹林(暖帯系常緑広葉樹林)であり、種々の温帯、冷温帯の植物が見られることから、照葉樹林の北方的限界性を示しているともいいう。 一帯は国の特別天然記念物に指定されている。 
神域は、派手々々しさはないが何か格別な古社を感じるのである。

須須神社は通称、神仏混交時代の名残で三崎権現とか三崎明神と称した。 
又、当社は高座宮(たかくらぐう)と称し、すぐそばにある金分宮と山頂・奥宮の三社合わせて須須神社と呼ぶ。 
祭神は天津日高彦穂瓊瓊杵尊(アマツヒダカホコニニギノミコト)と木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)、それに土着神(氏神)の美穗須須美命(ミホスズミノミコト)、他に建御名方命(タケミナカタノカミ)、武甕槌命(タケミカヅチオ )、保食神(ウケモチノカミ)等の錚錚(そうそう)たる神々が祀られているのである。



これらの神々を復習のつもりで一寸解説してみよう。
瓊瓊杵(ニニギ)はアマテラスの子(又は孫)で九州の日向・高千穂に降臨した神で日本の建国の祖神と言われる。 
木花咲耶(コノハナサクヤ)は大山祇神(オオヤマズミ:山の神)の子(姫)で、桜の木の命名の由、富士山をご神体とした浅間神社の総本社でもある。 この両

神は「夫婦神」で後、海幸彦、山幸彦を生む。 山幸彦の孫が初代天皇の神武天皇とされる。
建御名方(タケミナカタ)は大国主(オオクニヌシ)の子で、長野県諏訪地方の大神:諏訪大社の主神である。 そして、武甕槌(タケミカヅチ)は、元々は鹿島(茨城・鹿島)の土着神で雷神、刀剣の神、弓術の神、武神、軍神として信仰され鹿島神宮、春日大社および全国の鹿島神社・春日神社で祀られている神である。 両神は、出雲の「国譲り」で最終的に争った神とされ、結局、武甕槌が建御名方を打ち破り、後に、諏訪の地に押し込めたとされる。 このことから両神は「相撲」の起源ともされている。 
保食(ウケモチ)は、祖神であるイザナギとイザナミの子で、食べ物を受け持った(ウケモツ)神様、五穀の食物起源の神で多くの神社に祀られている。

須須神社の創建は古く、一説には二千年前とも言われる。これはもう神代の時代である。 
鎮座の位置、方位性などから東北鬼門、日本海の守護神としてあまねく信仰され、古代より縁結びの神として知られる。 

この「結び」とは単に男女の仲を結ぶだけでなく安産・育児・病気平癒・槌児祈願、生業繁栄・五穀豊穣・大漁・交通安全・学業成就・・鬼門除け等、人としての総ての生業(なりわい)をいうらしい。
社宮は元々、来る途中の山稜、狼煙地区の「山伏山」(鈴ケ嶽)に鎮座していたらしく、八世紀半ばにここ寺家(じけ)の地に遷宮し、分社されたという。 山伏山には今も奥宮が鎮座する。 

その昔はこの奥宮の中腹に大燈明堂が設けられ、夜ごと大神に献燈(狼煙)しており、これが日本海を航行する船舶の狼煙としての印にもなったという。 奥宮の鎮座する地は、狼煙(のろし)町と呼ばれるのもこのためであり、社名の「須須」は、煤(すす)という解釈ともとれる。


又この社は義経に纏わる伝説がある。
義経一行が奥州へ向かったのは能登、珠洲の経路であり、義経の妻は能登(珠洲市)へ流された平時忠の娘であることは先に記したが、妻を伴った義経一行が奥州へ逃れる途中、義父・時忠を訪ねて珠洲にしばらく滞在したと伝えられている。 
能登から奥州へ向かう途中、一行が珠洲岬の沖合で暴風に遭った為、海上守護神の三崎権現(須須神社)に必死に祈ったところ、たちまちに風が止んで難を逃れたと伝承はいう。 

その時のお礼に平家の名宝とも伝えられる義経愛用の笛・「蝉折の笛」(せみおれのふえ:鳥羽天皇が宋の国〈中国〉から送られた蝉のような節のついた漢竹の笛で、その節のところから折れてしまったところからついた名前とされる)と弁慶が寄進した「左」という銘入りの守刀を奉納したのが今に残るという。

平成17年度のNHK大河ドラマに「源義経」が放映されているが、同様に義経は昭和41年にも大河ドラマの題材に取り上げられている。 
その時の原作者・村上元三は珠洲を訪れて・・、


『 義経は 雪に消えたり 珠々の笛 』 と詠んでいる。 

当社にその歌碑も建っている。
この海岸に向かって屹立する大鳥居の寄進者は「北海道・札幌市」の人であるという。 
奥能登にひっそりと佇む神社の鳥居を札幌の方が寄進されたということは、珠洲地方と北海道とは深いつながりを示し、氏の先祖が珠洲地方の出身だといわれる。 
因みに、明治30年頃の石川県民の北海道移住者の数は珠洲地方が最大だったらしい。


次回、 「伝説とロマンの里
2018-03-06(Tue)

平成日本紀行(218)珠洲 「禄剛崎燈台」

「旅の終わり、そして本当の旅の終わりは・・?」





平成日本紀行(218)珠洲 「禄剛崎燈台」 .





 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-221.jpg
能登の最北端表示




http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-222.jpg
禄剛崎燈台




能登禄剛埼の中心に、さほど背は高くないがドーンと鎮座しているのが白亜の灯台「禄剛崎灯台」である。 
どっかの灯台の項で記したが、こちらの灯台も「日本の灯台の父」と呼ばれるスコットランド出身の鉄道技師・リチャード・ヘンリー・ブラントンによるものであった。

明治16年、初点灯の禄剛崎灯台はブラントンの設計により、日本人の手による洋式灯台の最初の建設であり、「国産の証」である日本で唯一の菊の紋章が灯台正面の記念額にに掲げられている。 
灯塔の高さは12m、三角形のガラス板を幾何学的に組み合わせた巨大なレンズはフランス製で、3秒毎に明滅して、約35km先まで光を届けることがでるという。


日本では明治以降、灯台守を職業とする人達がいた。 
灯台守として禄剛崎灯台を始め、全国を渡り歩いた内の一人である「小坂長之助」氏は、美保関(島根県)、烏帽子島(福岡県)、大立島(長崎県)などへ妻子とともに赴任して、1928年に伏木(富山県)の地で生涯を終えたという記録がある。 
この灯台はその後も長く灯台守の常駐体制を守り、昭和38年(1963)4月になって無人化さたという。 当時、灯台守は映画にもなった「喜びも悲しみも幾年月」を地で行くような人材が、全国に数多く居たのである。


奥能登にあって120年余の風雪に耐えてきた禄剛崎灯台は、今もなお現役の「航路標識」であるとともに、明治の面影をとどめる貴重な近代化遺産とも言われる。 
遺産としての禄剛崎灯台、実は、日本の灯台の23基の中の「保存灯台」にも選ばれている。 平成10年11月1日、灯台記念日に日本の灯台50選にも選定され、11月1日は灯台記念日としている。 
灯台は航路標識の一種で、すなわち灯火によって船舶の航行を支援する施設の一つである。 因みに江戸時代は「灯明台」と呼ばれていた。 

航路標識とは、一般に灯光、灯標、立標、浮標、霧信号所などの標識によりその位置または航路や障害物の所在を示すものとされる。 航路標識を管理する「海上保安庁」は、標識(灯台)が正常に機能するよう定期的に点検整備を行い、航路標識の消灯や故障に対しても直ちに復旧できるように努めている。

映画やTVの「海猿」で馴染みになって御存知とは思うが、海上保安庁の主業務は警備業務、海難救助業務、海洋情報業務とそれに交通業務がある。 
その交通業務の中に、灯台の設置・管理、航行支援システムなど、海の交通警察・海事情報提供機関としての業務がある。
海上保安庁の北陸地方の海域(新潟県=本部、富山県、石川県、何故か海の無い長野県も含む)は、第九管区海上保安本部が受け持つ。

よく北朝鮮の船舶「万景峰号(まんぎょんぼうごう:Man Gyong Bong)」(日本と北朝鮮の間を不定期ながら年20~30回くらいの頻度で行き来し、人と貨物を運んで新潟に入港する。日本と北朝鮮を結ぶ唯一の貨客船 )が入港する際の管理、監督は第九保が受け持っていることは周知である。 能登地方はその中の七尾海上保安部・ 能登海上保安署が担当しているという。 
従って、名灯台と言われる「禄剛崎灯台」は七尾市に管理所が在ることになる。


灯台」と「燈台」について・・、
灯台は構造物を表す言葉で、ごく近年建てられた一部の灯台を除き、殆どの灯台では地点を表す固有名詞の後に「燈台」を付け正式名称としていた。 これらの多くは、常用漢字として「灯台」が採用される以前に命名された灯台である。 
常用漢字が制定されてからは、燈台と言う名詞が付いているにもかかわらず「灯台」の字が使われることがある。

しかし、基本的には人名同様、既に記されている固有名詞であり、常用漢字が制定された以前に「燈台」と名前が付いている灯台は、燈台で良いのである。 
つまり、「禄剛崎灯台」は、「禄剛崎燈台」が正しいと言える。 
もっとも、この様な事例は他にも沢山あるが・・?、


地域の名称が役所の都合で簡略に変換(漢字の変換)されることには、小生も疑問符をもち、地域の固有名詞は人名と一緒の筈である。 
何時の日か、小生もウッカリして人の名前の「廣」という字を「広」と書いてしまって、当人にお目玉を頂戴した記憶が有る。 

当用漢字は1946年11月に公布,教育漢字は1948年に公布されている。 
更に、常用漢字は1981年10月に内閣告示された漢字のことで、当用漢字に代わるものとして告示された。 
実際、常用漢字は一般の社会生活における漢字使用の目安とされ,日常生活で日本語を表記する「目安」として定められたもので、専門分野や固有名詞は対象としていないともいう。


能登半島の北東端で、海面上46mの段丘上に灯台があって、灯台下の崖下には「千畳敷」といわれている平らな海食棚が広がる。 
干潮になると姿を現し満潮になると海中に没するらしいが、規模的には九州・日向(宮崎)海岸の「鬼の洗濯板」に比ぶれば可愛いものである。


次回は、「須須神社
2018-03-02(Fri)

平成日本紀行(218)珠洲 「狼煙の禄剛崎」

.「可愛い子には旅をさせよ」(日本の諺)






平成日本紀行(218)珠洲 「狼煙の禄剛崎」 .





 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-217.jpg
日本列島中心表示碑




 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/ss-218.jpg
禄剛崎方位表示




この先、曽々木トンネルの道路サイドには「垂水の滝」というのがあり、落差35メートルの滝水は荒磯へ直に流れ落ち、押し寄せる潮風によって飛散している。 
厳寒の候には、季節風により白い波頭が岩に砕け、渚一面にふんわりとした綿花状となって、風に吹きちぎられる、土地の人は「波の花」と呼んでいるらしい。

この辺りから町域は珠洲市(すずし)となる。 
国道249は更に荒々しい海岸を進み、前記の平時忠の配流地・大谷の地で内陸の大谷峠を越えて恋路海岸の飯田へ向かっている。 

小生は、このまま県道28号の海岸沿いを進み、能登の最先端「禄剛崎」へ向かう。  
日本周遊の中で、全てが海岸に面している国土において岬は付き物である。 
しかも、自然景観に優れている岬巡りは楽しみの一つであり、そして概ね、この岬には概ね灯台が配置されていて、こちらも必見なのである。 
こちら能登半島の突端に立つ禄剛埼や灯台は、避けては通れないチェックポイントである。


木の浦のS字カーブを過ぎ、折戸の海岸を過ぎると能登の最先端の港・狼煙漁港へ着いたようである。 
このまま進むと港海へドボン・・!、と落ちそうなくらい道は海岸埠頭へ接近していた。 

防波堤に囲まれた港は波音なく静まりかえり、既に今日の仕事を終えたのか十数艘の漁船が岸壁に係留たっていた。 
人の気配は全くなく、能登先端の静かな漁港である。 
地域名で狼煙(のろし)というのはすごく珍しい地名のようであるが、何か曰くは有りそうだ・・?。 

日本地図をみると、本州の太平洋側に比べると日本海側は比較的凸凹が少ない。 
そのなかで突出して目立っているのはが能登半島である。 
その大きな出っ張りは、航海者にとっては紛らわしかったであろう。 

何故かと言えば昔の航海は、陸地からは余り離れず、陸の地形を頼りにしてのである。 
半島の大きな出っ張りは、目印にはなったが、又、一方面倒な存在でもあった。 
特に、夜間や天候不順の日は目印が必須であった。 
この高台の岬には以前は大きな狼煙台があったに相違なく、 それがこの地域の名称になって残っているのは納得である。


現在の珠洲(すず)という地名は、「すすみ」(古訓で狼煙・のろしのこと)に由来するとも言われ、それに因んで狼煙町、狼煙港、狼煙海岸などの地名が今に残っている。 

この狼煙は1883年(明治16年)に白亜の石造灯台・禄剛埼灯台が建設されるまで活躍していたという。 
実際に、地元氏神の三崎権現(現在の須須神社:これより2km先の寺家地区)には、大昔から狼煙を行っていたという伝承も残っているという。


港の後背部は岬の高台になっていて「禄剛崎」(ろっこうさき)という。 
先端には禄剛崎灯台も有るはずで、港の海岸を一当たり見渡して、近くの商店に伺いをたてると、「歩いたッで、すぐそこでぇ・・」と返事が返ってきた。 

車を港の岸壁に置かせてもらって、カメラ一っ丁で出向いた。 
5~6分あるいたところで、東屋のある原っぱへ出た。 
やはり展望は抜群であり、前方左右で外浦、内浦を分ける岬の先端に居ることを実感する。 その又先端に貫禄十分の灯台があった。 
囲いで囲ってはいるが、門構えがあって「能登半島国定公園・禄剛崎」とあり、「禄剛崎灯台」と両門に掲げてある。 灯台の他に送信等と思われる鉄塔が建ち、そこに・・、


『ここは能登半島の最北端で、ちょうど外浦と内浦との接点にあたるところです。「海から昇る朝日」と「海へ沈む夕日」が同地点で眺められろ貴重な場所であります。又、晴れた日は、立山連峰から佐渡島が遠望できます。この灯台は・・』と記されてあった。
 

又、下の駐車場の案内板には「最果ての地・狼煙町」と書いてあったけど、灯台の近くにあった碑には「日本列島ここが中心」と書かれている。 

版図には禄剛埼を中心に円が描いてあり、その中にすっぽり日本列島が収まっているのである。 
実際に地図上で能登・禄剛埼を中心に円を描くと、ほぼ北海道の中央部から九州の中央部が円の線上に位置している。

小生は、日本一周で北海道の稚内(宗谷岬)から、九州南端の佐多岬を巡りつつ現在、禄剛埼に立っているが、この位置が日本の中心というのは一種、感慨深いものがある。


この一角に“面白い標識”があった・・、

東京・302km、上海・1598km、釜山・783km、ウラジオストク・772km』とある。
輪島の項でも述べたが、やはり能登からウラジオ・・へは近かったのである。 

周辺は一部石畳など敷かれ芝生が植えられた広場になっていて、ゆっくりと寛ぐことがでる。灯台近くの崖の斜面に生えている木が斜めになっているのは、季節風による厳しい吹き付けによるのだろう、今は穏やかな雰囲気が味わえる岬である。 


次回は、「禄剛崎燈台

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